「教えて!絶版先生」第1回: 『基礎と臨床』

tmrowing2014-08-18

今月より不定期で、「教えて!絶版先生」と題する、絶版書の解説を始めることにしました。先日の徳島でのanf先生とsarume先生との雑談が実現した形です。

このブログをよくご覧になる方はご存じでしょうが、私は、英語教材や、英語教科書、さらには英語教育の概説書などの書評をこのブログや、密林レビューで書いています。私自身も materials writer の端くれですから (このブログのプロフィール欄 http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/about をご覧下さい)、原則として、自分で購入し、実際に自分で読み、自分でも使い、または授業で生徒と一緒に使った上でレビューをしています。レビューしたもののうち「批判」ばかりが取り上げられるのは私の不徳の致すところでしょうが、良いものを取り上げ、相当数を「褒めて」いることも知っておいて欲しいと思います。

某所で「『批判するなら代わりの本を書け』という批判に対して、『いや、もうこんなに良い本が既に世に出ているじゃないですか』と、その良さをいくら聞いたところで手に入らない絶版本が既にあるといって、自分は本を書かない商法の先生」=「絶版先生」というような形容をされ、「言い得て妙だな」と思い、気に入って以来「絶版先生」と自分でも名乗るようにしています。

江利川春雄先生のおかげで、英語教育研究、英語教育史研究ではスポットライトの当たりにくい対象であった、「学参」も、明治期から戦後、60年代、70年代くらいまでのものの再評価は徐々になされてきていると思います。私が英語学習者としてのスタートを切ったのが、1976年。大学で英語教育を志すに至ったのが、1982年。教壇に立ったのが、1986年ですので、その自分の歩みに照らして、70年代以降のものを中心に、学習参考書に限らず、所謂「英語学習」に資する本や、「英語教育」に資する本で、残念ながら絶版となってしまった「良書」に再び光を当ててみたいと思い、この連載を始めることとした次第です。

第1回
『英語科教育 基礎と臨床』
五島忠久・織田稔 著 
研究社出版、1977年刊

現時点 (2014年8月18日) で、密林の中古在庫、「日本の古本屋」での検索でも出てこない、中古市場に流通していない本の一つです。

2012年に共著で『学習英文法を見直したい』 (研究社) に拙稿を寄せましたが、その際に、「参考図書」「参考文献」としてあげたかった本でもあります。(ちなみに、私の書いた「第7章」の参考書籍は、『英文法の問題点』、『英作文なんかこわくない』の二冊でした。)

で、『基礎と臨床』の話しです。
「コミュニケーションに資する英文法」「英語で教える英文法」といった、耳にやさしい言葉が飛び交う、今風、今様の英語教育での概説書や、過度に単純化されているにもかかわらず饒舌な説明に躍起になる巷に溢れる「英語本」との違いが分かってもらえると幸せます。

「まえがき」は、

英語科教育にたずさわるものの悩みのひとつは、理論をどのようにして現場での実践に結びつけるかということであり、また実際の授業をどのようにして理論づけるかということである。この悩みに少しでも答えることができればと考えて、とりくんだのがこの「英語科教育 基礎と臨床」という仕事である。
英語学や言語学の理論をふまえ、さらに言語習得理論、発達心理学、教授法、教材研究などの成果から得たものを基礎理論とし、それが実際の授業とどのようにつながるかを検討することを目標としたものである。

と始まっています。
この本のもとになっているのは、雑誌『現代英語教育』(研究社) の1974年4月号から、1976年3月号までの二年間、24回にわたる連載です。
連載の段階で、

中学の英語をだいたいその学習過程にあわせてとりあげ、まず基礎理論を展開し、つぎにそれについて中学・高校の先生がたと討議して、現場での授業とのズレや問題点を検討し、臨床的処理の方法探求にまでおよんだものである。毎月、基礎理論の原稿ができあがると急いで討議参加者にコピーをくばって読んでもらい、そのうえで討議をしたのであるが、時がたつのを忘れて白熱した議論を続けたりしたことも、いまはなつかしい想い出である。

「基礎と臨床」という看板に偽りのない、まさに、その名の通りの本です。
当時の編集主幹は後藤典彦氏とのこと。まえがきにある、「仕事」という形容が相応しいと思います。「ものづくり」の姿勢が見えるようです。

目次の章立てと見出しを見ると、当時の中学校の指導要領を踏まえてはいるものの、「基礎理論」として、当時の英語学・言語学などの知見を踏まえていることがよくわかります。

基礎と臨床「もくじ」
『基礎と臨床』もくじ.jpg 直

第4章の、英語の「もの」の見方、では次のような例の対比で、mass vs unit へ、そしてさらには無冠詞 vs 不定冠詞へと読者の意識を喚起しています。

  • The hen laid an egg.
  • You have egg on your chin.

「センター試験」での出題を楯に取らずとも、言葉のしくみは教えられるし、そうでなければならないでしょう。

  • Language is a means of communication.
  • I study a new language.

日英語の比較対照についても深い洞察があります。

不定冠詞と複数語尾 (p.29)
不定冠詞と複数語尾.jpg 直

ここで示されている、

  • 日本語の名詞: no article, no number
  • 英語のmass-words: zero article, zero number

という対比は、日英語の名詞を考える上で一度は立たなければならない地平だと思うのです。
先日の徳島での全国英語教育大会で、「物質名詞」を取り上げて、明示的指導の効果を見る、という非常に興味深い考察を含む発表を見ました。リサーチデザイン、検証などなるほど、と思う部分は多々あり、今後に期待できるものであったのですが、その資料の参考文献で挙げられていた白畑らの論文 (http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=en&type=pdf&id=ART0010106962)に引っ掛かりました。そこで扱われている「明示的指導」の中身は、上述したような日英対比を踏まえていただろうか?という疑念が残りました。明示的指導の効果、可否を考えるのであれば、その部分をこそ、検証する必要があるだろうと感じています。
基礎理論を踏まえ、検定教科書に現れる用例を踏まえた上で、「討議」がはじまります。

「もの」の見方_討議
「もの」の見方_討議.jpg 直

討議はこのあと3頁続き、章は「冠詞」へと移っていきます。

後半の第14章では、「名詞を修飾する文」という、聞き慣れない (かも知れない) 見出しとなっています。ここでは日英比較対照での「前置修飾」「後置修飾」を考える、足場が均されています。

名詞を修飾する文
名詞を修飾する文.jpg 直

ここで示されている「陳述文から修飾文へ」は、私の指導で現在まで続いている<文と文をつくる要素との識別>で行っているドリルの出発点でもあります。

「討議」では、<関係詞代名詞の省略>の扱いで意見が交わされていますが、「高校入試」という、90%以上の中学生に課せられる試験の影響を実感します。

名詞を修飾する文_討議
名詞を修飾する文_討議.jpg 直

<後置修飾>は中学段階でのハードル、山場であることは確かでしょう。しかしながら、今では「接触節」と呼ばれることも多い、 “something you will like” などの「無連辞修飾節」が、分詞による後置修飾よりも指導・学習・習得が難しいのか、そして、「修飾 (被修飾)」とはどういうことなのか、一度は、じっくりと考えておくべき項目でしょう。

この討議を経て、関係代名詞、疑問詞文の変容、関係副詞と移っていきます。
その後に、「19. 名詞を修飾する動詞」として、不定詞による名詞の修飾、所謂「不定詞の形容詞的用法」が扱われています。ここで、「14.名詞を修飾する文」との呼応がなされるわけです。私は、連載当時は (生まれてはいましたが) リアルタイムでは読んでいませんので、どのように毎月、展開していったのかというリアリズムまでは分かりませんが、改めて一冊の本として見た場合には、秀逸な構成だと思います。

名詞を修飾する動詞
名詞を修飾する動詞.jpg 直

そして、この章を受け、「20. 叙述と修飾」が考察され、語られる、という流れになっています。

『基礎と臨床』には、コーパス言語学や認知言語学などによる「新たな」知見が教育現場でも活かされるようになってきた1990年代以降の英語教育、また英語教育に関する概説書や市販されている『英語本』から見れば、「古い」と感じられる記述も多々あります。しかしながら、1970年代後半の一時期に於いて、その当時得られる知見を集め理論的基盤、舞台を準備し、現場での指導に携わる人々の「臨床の知」でそれを均していく、という「誠実」な取り組みが結実した、希有な書だと思っています。

今、2014年。SLAの知見も現場で取り入れられるようになってきました。では、それらは「活かされて」いるでしょうか?教師の側から研究者に対して、「現場で活かせるような研究をお願いします」と懇願しても、研究者の側から、「今では、このくらいのことは常識として踏まえておいてもらえないと」と現場の理解の無さ、変わらなさ具合に業を煮やしても、あまり健康的で生産的な地平へとは突き抜けられないように思います。ましてや、「研究マインドを持ち続ける教師」とか「常に現場に軸足を置く研究者」になれ、というのはどちらにとっても酷な注文だと思うのです。
教師は教師として、研究者は研究者として、それぞれの持ち場で、それなりの努力を続けて行けば十分で、大事なのは、その接点をどこで誰が作るのか、その「接点 (接触面) 」での摩擦をどう解消するのか、ということでしょう。その意味で、「研究社」は、本当に素晴らしい仕事を残したと思っています。
教職としての「英語科教育」に定評のある大学の図書館や、継承を大切にする先生の研究室にはこの『基礎と臨床』があるかもしれません。中高のベテランの先生や、既に現役を退かれた「元英語教師」の方々の「蔵書」に置かれているかも知れません。古書市場でももっと出回って、多くの心ある英語教師、英語教育学者の手許に届いて欲しいとは思います。できれば、復刊されることを望みます。
しかしながら、粗製濫造ではなく、拙速ではない、21世紀の『基礎と臨床』の登場をこそ、絶版先生は待っています。