本当の学びは「あ、そっか!」の後から始まっている。

tmrowing2014-07-08

作問祭りが終われば採点天国。自分の指導の不備を嘆いても後の祭り。
山頭火のように歩くだけです。
梅雨の末期症状なのか、集中豪雨のように降りまくる。試験時間の繰り下げなど試験の対応も大童。安全第一。対策は空振りでいいんです。

古い本を読んでいて、まるで今現在のことが書かれているような気がして、ドキッとすることはよくありますよね?
そんな一冊の一節から。

速川和男 『Japan あれこれ英語表現 現代のニッポンを読む』(英協、1986年)

http://t.co/7370bcqPdE

速川先生が中野好夫を引いているわけです。
同書には他にも、

日本人は忘れっぽい。テレビドラマで戦時中の国家権力の恐さを魅せられ、『ひどい時代だったねえ』と言いながら、夢よもう一度を狙って政治が動いていることに無関心な者が多い。(p.150、「日本は今」)

というコメントがあります。語り継ぐべきことがらが確かにあるということでしょう。

さて、
新刊の『英語で教える英文法』(研究社)を著者の一人でもある山岡大基先生よりいただきました。ありがとうございます。まずは一読。
錚々たる執筆陣の多くは中高現場で卓越した指導技術を披露されてきた方たち。にもかかわらず、読後は「?」が多く残りました。なぜ「今」この内容なのか?「英語で教える」PPPを超えて、FonF時代の「英語で教える」となっているのか?などなど…。

表紙には次の文言があります。

  • 「場面で導入、活動で理解」

腰帯には、

  • 「一方的な文法解説やドリル中心の文法指導から脱却するために!」

気持ちはよくわかるのです。でも、本当に必要とされているのは、「英文法も英語で教えているんですよ」という既成事実作りに使われかねないマニュアルではなくて、「理解に至らないダメな一方的解説」「自動化に至らないドリルで終わる指導」よりも有意に優位な「英語で」の指導法だと思うのです。
この部分がクリアーされないと、「確かに、授業では『英語で英文法を教わった』し、『リアルな場面で導入された』し、『英語での活動』もやった」のだけれど、正規の授業の外付けで、文法や解釈、作文などの受験演習を繰り返すことで、「初めて分かりました」という生徒が出てきたり、今以上に、ギミック満載の『これ以上キレッキレの解説はこの世にない英文法』みたいな参考書が蔓延り、「目からウロコでした。どうして学校ではこういう教え方をしてくれないのか‼」などという生徒が出てくることになりはしないかという危惧を抱いています。

今回の『英語で教える英文法』は「教わったはずなのに、学んでいない」「学んだつもりだったけど、身についていない」からの脱却になっているか?という部分を吟味する必要があるように思います。一読の段階では、その先の「身についた、と思っていたけど、使えるようになっていない」という「運用」への視座が薄いというか、食い足りないという感じがします。多分、そういった「ニーズ」に答える続刊が出るのではないでしょうか?

今回の執筆陣なら、「学校教育の中での『英文法』の議論、研究の歴史、成果をもう少し反映されられたのではないかと思うのです。
このエントリー冒頭の写真は、これを書いている今、自宅の書棚にあるものを引っ張り出してきたものです。(IMG_4506.JPG 直
今回の執筆陣には「語研」の方も多いのですが、本書での指導例で若林俊輔『英語の素朴な疑問に答える36章』(ジャパンタイムズ、1999年)の問いに答えられているか?を再読しようと思います。

私の読後の「?」の主な要因は、それぞれの項目での「指導のポイント」記述のばらつきにあるように思います。
例えば、中学校の範囲に当たる、第3章の「9 when if that節」での考察(pp. 86-87)は大変優れたものです。

  • これって、末岡先生っぽいなぁ…。

と思って執筆者を確かめたら、案の定末岡氏でした。流石だと思うのですが、この項目での記述の量が丸々1頁と十分にあることに注目すべきでしょう。ただ、指導案のコピーを貼り付けるのではなく、記述の分量が保証されることで、考察の内容が一定の水準をクリアーするということは、書き手としての自分自身痛感することです。

それに比べて、高校で扱うとされる項目での記述は少々というか、かなり貧弱に映ります。時にポイントを外しているのでは?と思うことも。
例えば、関係副詞。<前置詞+関係代名詞>との対比を考えてもわかるように、場面ではなく、「意味」と「構造」こそが、この関係副詞という項目での適切な理解に必要なのだと思っています。さらには、とかく「同格」で済まされがちな、不定詞の後置修飾、「形容詞的用法」での<名詞と不定詞の意味の関係>の理解につながる勘所でもあるはずです。

「関係副詞」の指導のポイント、悩みどころとしては、拙ブログの過去ログ、

シンデレラの履いていたガラスの靴 - http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20111113 

をお読みいただければと思います。

AAO(=「英語は英語で」が王道)派に言いたいことの一つをここに書いてありますので併せてお読みください。

stethoscope - http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20130501 

「関係副詞」関連で私が使っているハンドアウトはこちらからDLが可能です。

http://t.co/vYQy5GztSA

『英語で教える…』、第3章の中学校範囲では、「16.分詞の後置修飾」が扱われます。次の項目は、「17. 関係代名詞」。大きな山場となるでしょう。
では、中学段階でこのような導入・活動により理解が増した「後置修飾」が定着するのはいつになるのでしょうか?高校段階?高校段階では、それこそ、

  • 場面や目的に応じて、適切な文法項目を選択して運用する活動(今風に言えば「タスク」)

が必要になるのではないでしょうか?高校編の第4章ではそのような活動が「英語は英語で」扱われているでしょうか?
第4章で扱われているのは、
関係詞の非制限的用法(pp. 179-184) と分詞構文 (pp. 197-202) です。

例えば、後置修飾を身につけさせるのであれば、

<名詞+前置詞+名詞>では何が表せないのか?
<名詞+不定詞(+前置詞)>では何が表せないのか?
<名詞+分詞>では何が表せないのか?
というそれぞれの「得手不得手」を踏まえて、
<名詞+関係詞>の持ち味・有り難み
を実感することが必要なのだと思っています。
このような行きつ戻りつの「学び」を経て初めて、少し高い視座から文法項目を眺めることが可能となり、「前位の形容詞」の特質・本質、「後位の形容詞」の特質・本質がわかってくるのではないでしょうか?

「分詞」って結構難しいんですよ。
諺だと、Barking dogs seldom bite. とも Let sleeping dogs lie.とも言いますから。

あれっ?確かに、barking dogs は今吠えていなくてもいいのかもしれないけれど、sleeping dogs の方は今寝ててくれないと寝かしたままにしておけないのでは?

と思った時に、別の解釈との仕切り直し、行ったり来たりで確認できることが大事なのです。

所謂「分詞」にかかわる勘所は、

安井稔 『仕事場の英語学』(開拓社) http://t.co/v8jwDclFlI

の、pp.163-167に具体的且つ簡潔に説明されているので、図書館で借りてでも是非是非お読みください。

安井稔先生の『そうだったのかの言語学』(開拓社、2010年)の、「形容詞について」(pp.115-123)でも、前位の形容詞、後位の形容詞や、分詞について扱われています。
「-ingの表す意味がtimelessな場合は関係詞節でのパラフレーズは不可」という主旨の簡潔な解説には唸りました。

前位・後位の形容詞、関係詞節へのパラフレーズなど、形容詞の「肝」は、安井稔『英語とはどんな言語か』(開拓社、2014年)の、第9章「形容詞について」(pp. 76-87) に比較的読みやすくまとめられています。 http://t.co/Y3fxKnGvn2

安井先生の論考を読んで感じるのは、論理の明晰さは勿論ですが、「恒常的」「分類的」というラベルをただ貼るのではなく、「…というのはそもそも?」「…ということになりはしまいか?」と、地に足のついたところまで降りてというか、頭が身体まで降りてきて考えることの重要性ですかね。

本当の「わかりやすさ」とは、きちんとした問いの立て方ができ、その問いに基づいて回答(解答)がなされることによるのだと思っています。ことさらに「独自性」や「斬新さ」をアピールしなくても、良いものはわかってもらえると信じています。
そんな、本当のわかりやすさを備えている本に、最近、「呟き」の方で勧めていた概説書、

英語の動詞―形とこころ 木下 浩利 http://t.co/O46r2qIjs8

があります。
英語の時制、助動詞やモダリティに関して、澤田治美先生のものほど詳しくなくていいなら、これがコンパクトで内容もしっかりしているでしょう。絶版かとは思いますが、古書での流通はまだあるようです。必ず「新訂2版」の方をお読み・お求め下さい。

生き生きとした場面を設定した英語による文法項目の「導入」はPPPの時代にも行われていました。優れた指導手順を研究授業などで何度も目にしてきました。でも、「その出会いで、後々まで深く結ばれる」というような人間関係は稀であるように、「構造」や「機能」が運命的な出会いだけで理解習熟できることも稀でしょう。では、どのように「出会い」を重ねるか?
教え込まずに「気づき」を促す、という方向に「時代」は傾いてきているのだろうとは思います。しかしながら、私が普段教えているような生徒の多くは、そのような「気づき」の機会をことごとく逸して「気づき損なって」きた人たちなのです。そんな人たちには、「気づき直し」「仕切り直し」の機会が必要なのだと思っています。

ジャクソン・ブラウンの歌は、いつも、ハリウッド映画のエンドマークが出たところから始まっている。

と言った評論家がいました。
私がジャクソン・ブラウンの熱心なファンであることは言うまでもありません。リスペクトはMAXといってもいい位です。が、しかし、ジャクソン・ブラウンになろうとは思っていません。自分には自分の実作があるのですから。


本日のBGM:一角獣と新しいホライズン(山田稔明)