「もう一度靴を履く」

tmrowing2014-06-16

梅雨明けかと思わせる空にひんやりした朝焼け。
昼には気温もかなり上がりましたけど。
本業は低調。選手が、ブヨだかブトだか虫に刺されたところが酷く腫れて高熱で入院という事態に!練習水域で刺されたのではなく、自宅周辺らしいので、まだよかった方ですかね。
正業も淡々と。
看護科2年は、「犬猫」の内容語彙の仕込みから、教科書本文へ。導入に凝るとかローリー・ニコルとか、一切やっていません。内容語彙を確認しているので、自力で読めないところが当然、まだ自分の守備範囲になっていないところ。自分の中にOSを作るための、行ったり来たりです。

  • 名詞節を導くwhetherでの頭の働かせ方
  • 対比を表す副詞節を構成するwhileでの「焦点・力点・重点」の置かれ方

前者は比較的楽ですが、後者は中級者でも悩むことがあります。文法上の主節に必ずしもスポットライトが当たらないことも多いのです。<ナラティブのwhen>に慣れていると、少しは実感が増すのでしょうけれど。

  • That means (that) SV.

での「言い換え・要約」はさらりと。「先行文脈の名詞化」が適切にできないとthatへの受け継ぎはできないので、潔く日本語の助けを借ります。「ことがら」だけでなく、「人」や「もの」の代名詞での受け継ぎでも、本来は「名詞句の限定表現」となっているからこその「特定」であり「代名詞」での受け継ぎになるはずなのに、核になる名詞だけ英語で答えさせて、事足れりという授業を幾度も眼にしてきましたので、突き詰めたい気持ちは山々、吉田麻也ですが、それは高2の終わりで、他がもっとしっかりできてからでもいいかなと。意味の確認が済んでから、音読練習へ、という流れです。

進学クラス高1の「大関」の出番、3コマ漫画づくりでは、予想通りの展開。
substitution drills的なホワイトボードでの復習をしているので、1コマの絵を元に、を使って英文を作るのは誰もができるのですが、その1コマの絵を足がかりに、その前、その後などの「余波」を設定するところで皆、波に乗れず、流れに乗れず。英語以前の問題も多々。
3コマ全てに完了形を使おうとすると、「今へと繋がる余波」は当然、ボケてしまします。かといって、現在と明らかに切り離された過去の出来事をただ描写しても、「波」や「流れ」は生まれません。そして、当然のごとく、せっかく「今」に意識が集まったのに、そこからの流れ・展開を活かせないまま、「話し」にならないことが多いのです。少人数クラスなので一人一人FBを与えて、出直し・仕切り直し。
例によって、何回もダメ出しを貰う人も出てきます。でも、誰かが代わって学んでくれる訳ではありませんから、自分でやるしかないのですよ。一人でピッチの空気を変えられるドログバのような控え選手を擁していれば誰も苦労はしません。地道に、自分で選択して、間違いながら「それなり」で「よりまし」な英語を自分で紡ぐことが大切。残り時間5分で、天才柿谷じゃなかった、「規則変化動詞のマトリクス」投入。決め手を欠いたまま授業終了。次の1時間で、自分たちの英語の授業というものをしっかりと表現したいです。

高3は模試解説も一休みで、絶滅危惧科目「英語 II」に。
副教材の『デュアル』で、R&L。全員に本を購入してもらった上で、ワークシートはA3両面印刷で切り貼りしています。レイアウトが余りに酷いからです。中身がいくら良くても、初学者が一人で学ぶには酷な見かけです。本当に売れていないようなので、改訂もなされません。
リーディング素材では、ステップを踏む毎に、理解が深まる仕掛けをいくら作っても、どこで「読み飛ばし」をしているか、どこで「虫食い」というか「穴空け」をしているか、指導者が掴むのは難しいもの。リスニングではチャンクの頭だけが読めるように印刷されている状態で聞き取り、オンライン処理、というのは、どんな英文素材でも適用可能なので、広く普及して欲しいですね。教科書の本文の右3/4だけを伏せて、左端の部分だけを新たに印刷するのは難しいので、今使っている教科書の幅に合わせて下敷きを作ればいいだけかも知れませんが…。

検定教科書も、教科書全部は無理でも、どこかひとつの課丸ごとが「ディクトグロス」みたいな構成にしてみればいいんですよ。教科書読んでいるだけではわからない、何度も聞いて理解が深まる、または、不十分な理解 (「曖昧」ではありませんよ) を元に、何か課題に対して、その首尾不首尾を受けて、再度聞いて、をくり返すような活動こそが、本来の「コミュニカティブ」なことばの学び方、使い方ではないか、という気がします。
そもそも、検定教科書って、教科書になっているもの以外、つまり印刷されたもの以外の「素材」ってどのように審査されているのでしょうか?朗読CDなどの「音声」 (音源) は?スクリプトで見て終わりなのかしら?挿絵や写真も、その多くが「機能」を果たしていないように思います。本文で取り上げられる固有名詞の写真をただ載せているだけ、主題に切り込むことのない「話題つながり」での「埋め草」のようなものも沢山あります。

教科書のある課は、各頁の上半分に写真が1枚あるだけ。その写真に関するIRFのインタラクションが音声でなされるというだけでも、随分違うだろうになぁ…。

などと昔の教科書を作っていた人間は思うわけです。

教科書本文の一つのパート、セクションに空白のフレームが一つあり、その空白部分に、本文の内容を端的に示す絵を自分で描く。

などという活動があってもいいでしょうに。今日の冒頭の写真、「ジェニーちゃん」の絵がその活動例で出てきた一コマです。

  • ここでのジェニーちゃんの心情を表情で描きなさい。

というもの。
「英語は英語で」、の前にやっておくべきことがまだまだありますよ。
折角、TBLTの発想が教室現場に染み込み始めていたのに、「英語は英語で」の流れの中で、結局また文法事項も「英語で導入」の部分に今まで以上のフォーカスが当てられるのがなんとも歯がゆいです。
導入はほどほどでいいんですよ。繰り返しと仕切り直しで、「そのつど」「よりまし」な選択ができることを支援していくことを重視すれば。ただ、そのためには、学習者が気づき損なったその文法事項、選び損なったその文法事項は、本来どういうもので、どうあるべきだったのか、という「レファレンス」が少なくとも教師の中にしっかりとあって、必要に応じて、学習者も「参照」できることが必要でしょう。参照できるのは、Can-do statementsだけ、では本末転倒だと思うのです。
学校の外に目を向けても、芳しいニュースは入ってきません。
テストでも学習法でも、本当の専門家の知見が受け入れられず、共感を呼びやすい有名人の「物語」が歓迎されるのが日本の「英語学習」業界なのでしょうね。 「それぞれ」が「それなり」で「よりまし」な選択をし、その選択に責任を持つよりも、周りと同じ「安心」を買う人が多いということでしょうか。

広島に思いを馳せつつ、本物の唄を聴き、本物の酒を呑み、いつものように早めに就寝。

本日のBGM: ブーメランのように (原田知世)