そう言えば、今日は亡き母の誕生日でした

今週の温故知新。
Threshold Level の「学校教育環境版」。刊行は1976年。90年版に先立って、75年版があり、その「学校教育環境版」がこちら。38年前に作られていたわけです。

当時の最新の知見に基づき「シラバス構築の拠り所」となることを想定されていたようです。我々世代にはお馴染みの、L. G. Alexander の貢献によって機能別・概念別表現、言語材料の精査がなされています。

この内容を「古い」というのは簡単。だって、(=after allを使うところだね)40年近く前の「最先端」なのだから。では、今、日本で進んでいる「英語教育改革」は、このような地に足のついた「最先端」か?
端書の JA van Ek の言葉を反芻。

日本で開かれている有識者会議では「なぜ、学校教育環境での外国語教育を考えるのか?」本当に議論されているだろうか?「英語は英語で」に反対とか、服従せよとか、はたまた「外部テスト」をどう導入するかといったことばかりでは?
この写真右ページ上の「5項目」について、殆ど耳にしないように感じています。不毛な議論の末に、「誰かの思惑」「誰かの利益」のために、犠牲になるのは真っ平御免です。

そして、彼我の差を痛感するのが、この項目。

  • Feasibility

この言葉、概念は、重いですよ。
繰り返しますが、1976年にこういうことを本気で考え、実行性を問うていたから、90年版があり、現在のCEFRがあると思うのです。

ライティング指導・評価についての研究や議論では「添削の効果」がとりあげられることが多々あります。
私の基本は、

「添削はする。でも、直したから次からは間違えない、などということは考えない」

というもの。
では、何故添削するのか?「よりましな英語」への道筋を示すため。「言いたかったけど言えなかった言葉」との出会いを作るため。
「添削しても間違いが減らないなら、添削は無駄な労力」と思う人はしなければいい。「真っ赤になるまで直されたら、書き手が萎縮する」と思う人はしなければいい。「自分が書きたかったけれど書けなかった言葉に出会う」ことを求めない人はいないと思うので。私は、そういった出会いを一つでも多く作れるよう、己の添削の力量を磨き続けます。
こういうことを言うと、また友達なくすかもしれないけれど、殆どのライティングの活動で、誤りを指摘されて書き手が萎縮したり、添削によってやる気を削がれたりする、ということはありません。結果としてそうなるように見えるのは、学習者にとって「不適切なお題」「不十分な準備」で書かせているからです。レベル設定、興味関心・動機付け、導入、お膳立て、資料読解、口頭練習などなど、授業での持って行き方が不適切・不十分なのだと思います。
まずは、われわれのL1である、国語教育の「大村はま」実践、「倉沢栄吉」実践、「青木幹勇」実践から学びましょう。

『英語教育』大修館書店、2014年6月号の、「研究と実践」(pp.68-69)

の内容に「?」。論文の紹介のはずが、評者の主張が勝ってしまっている。p.69の「このような先生方は、教室で英語ロボットを作ろうとしているのではないだろうか」って、何を根拠にそう喩えているのか?論が雑。
「最初は漠然と霧がかかっている状態を自分で切り開いていくような読み手」(p.69) というけれど、選択的な読解での「選択」をほぼ全て教師と教材がしているような授業で、果たしてそのような読み手が育まれるのだろうか?

4.「英語で英語を読む」授業が目指すこと、で語られている「どんな英語力の生徒も、それぞれの力に応じて英文と格闘する、それによって、今どのような内容の英文を、何故読んでいるのか、それがいつも鮮明となる。」

ような授業って「英語は英語で」じゃなくとも普通に行われているでしょう?

今月号は、よくわからない誌面構成。「定期試験」の見直しに関する論考があちこちに散乱。こういうものこそ、「特集」すべきでしょう。

「定期試験」と「入試」とを同列に語ることは難しいけれど、予備校講師による「2014年度大学入試」分析と対策を、とある出版社のサイトから。

pp.3-4では、今春のセンター試験の分析があります。
p.7では、国公立大学などの表現力を問う入試問題の分析があります。
これらの分析を拙ブログ記事で「入試」を扱った回の内容と比較してもらえば、問題意識のズレが浮かび上がるでしょう。まずは、センター試験。

センター試験・第6問評はこちら。

表現力問題はこちら。今年は何と言っても神戸大の出題に着目せざるを得ないでしょう。


表現力問題を評価する視座は、こちらの方がよく分かるでしょうか。

ここでの私の指摘、問題提起と、上述の予備校講師による「分析と対策」とでは交わる部分が少ないことが分かるでしょう。

入試対策として、「文法」指導の重要性を説く英語教師の多くが「体系的」という言葉が好きなようです。ただ、自らが学習者として文法体系が完成した時期、文法の全体像が自分の中にできあがった時期を自問自答する必要があるだろうと思うのです。私の学習者歴を振り返れば、朧げに全体像が見えた気がしたのが早くとも大学2年生の時ですよ。
その「全体像・体系」にしたところで、鳥の目で見た下界の風景とか、山頂からの眺めであることが多いのでは?学ぶ過程においては、よくわからない森の中を這う、たどたどしい「虫の足取り」からの「虫の目」が頼り。上空からの自分の進むルートの指図よりは、森の中で先を歩く、または「後ろ」から見守るネイチャーガイドの方が頼りになることでしょう。
「意味順」が方法論として優れているのは、虫の目で進みつつ、自分の足跡の分広がったはずの「陣地」を、鳥の目で見渡し、さらに虫の目で進む、という学びを志向しているところ。それぞれ、そのうち、加速できるところで加速するもの。人間らしいというか、生き物らしい学びに立脚していると思います。

「文法の明示的な指導」とは「日本語による統語に関わる文法解析とその記述説明」だけではないのです。この、「意味順」だって、極めて明示的で直接的です。しかも、L1に依存している度合いが高い。それでも、うまく行くものはうまく行くのですよ。

「明示的」という時に、「日本語による文法解析」ばかり批判されることで「明示的な指導が有効な文法の領域・分野とその指導法」の議論が高校英語教師の間でなされないばかりに、「タスク」という概念を消化不良のまま取り入れ、結果として手続き的知識「もどき」を遠回しに「教える」ような不幸な現場が増えないことを願います。

「あれは学校の先生の思いつき」 - 英語教育の明日はどっちだ! (@tmrowing) http://t.co/VWgekdWJA5

このエントリーで紹介した研修内容が、「体系的なライティング指導法(裏返せば学習法)を!」というリクエストに対する私からの回答でもありました。

今週、高2のクラスで確認したのは、

  • He is poor, but he is honest.

での honest の語義。「誠実な、正直な」では、butでの前段とのコントラストを成し得ないから。

「盗まない」という語義は「基本」?
英和辞典の「訳語」の限界を知ることが大事。三省堂の『ウィズダム』でさえ、Poor as he was, he was honest. の honest に「正直(者)」という訳語をあてています。この用例は譲歩のasの項目に収録。ただしhonestの頁にも「盗まない」はないのです。

「中学レベル」と簡単に括りがちだけれど、

  • Where are you?

  • Where are you from?

の違いを実感させたり、理屈で説明するのは結構難しいんですよ。だから、高校生でも『意味順』と『コーパス口頭英作文』を教材として使っているんですけど。
「話し言葉」で、here & now の、当事者基準でやりとりをしていると、"in here" とか、"out there" などに頻繁に触れるからいいのですけれど。「キホンのキホン」が教える側で本当に分かっていないといけませんね。
で、あたりを見回して、

  • Where are we?

スマホでGoogleマップ見て、

  • We are here.

と指差し確認。
一方、

  • Where were we?

なら「前回どこまで進んでたっけ?」と授業冒頭でのレビュー、または脱線したあとの仕切り直し。これみんな「中学レベル」?
授業では生徒にこう言っています。

「基礎」とは、あなたがどこまで行っても、そのあなたの立つ足下で、あなたをしっかりと支えてくれるもののことです。

本日のBGM:新世界のジオラマ(山田稔明)