なんで『「なんで英語やるの?」の戦後史』の感想書くの?

先日のブログでも少しだけ触れていた、寺沢拓敬氏による表題の書。

「なんで英語やるの?」の戦後史 ??《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程

「なんで英語やるの?」の戦後史 ??《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程

過去ログはこちら、

近年稀に見る「インパクト」のある書だと思います。
英語教育を「熱く語る」書は、これまでにも幾つかあり、その中には「歴史に残る」ものもあったかと思いますが、この『寺沢本』は、例えば、寺島隆吉氏の『英語教育原論』などとは対極にあるもの、というのでしょうか、著者の持つイデオロギーやフィロソフィーを前面に出して迫るのではなく、

  • 歴史社会学?

のアプローチというのでしょうか、徹頭徹尾、文献に残された「言説」をデータとして「実証」的に記述していく中で、著者の「英語教育」に対する姿勢が (時折、極めて大きく) 顔を覗かせる、という意欲的、野心的な作品と言えるでしょう。逆接めいていますが、

  • 「『モダリティ』を極力排しよう」というモダリティ

によって支えられている書、とでもいうような印象を持ちました。
私は現場の英語教師として、高校を中心に28年間教えてきましたが、そのような「教師ひとすじ」という人間には、その28年間という限られた期間でさえ、なかなか、自分の英語教育に対する「熱さ」を一旦脇に置いて、そこでの出来事や英語教育界で交わされた言説を整理していくのは難しいものです。現場にいることで自分が発する「熱」は常に「モダリティ」として、その教師から離れず、まとわりついているといえばいいでしょうか。
通読して、やはり、この一節に出くわしたところで、私の装着したスカウターの値は高くなったように思います。

その意味で、現代の英語教育の目的をあらためて構想するうえでは、哲学的・倫理学的な検討が不可欠である。もちろん「哲学」と言っても、「人生哲学」のような人生論の類ではない。英語教育への「熱い思い入れ」だけを唯一の糧にして、人生論的な「べき論」を披瀝するような研究者・英語教師にはそもそも困難な仕事だろう。むしろ、この種の研究は教育哲学にも関心のある研究者・英語教員・学生に期待したい。というのも、教育哲学では、(人生論や床屋教育談義とはまったく別種の) 「教育目的論」という学問領域がきちんと確立しているからである。(p. 255)

私の教師としてのスタンスも、このブログの筆致も、どちらかといえば「床屋談義」に近いと思うので、やはり寺沢氏やその後に続く、「資質を兼ね備えた」研究者・英語教師・学生が、この「教育目的論」を展開し、議論を重ねていくことに期待しています。

上記の理由で、「書評」は手に余るので、その代わりに読後の内省を感想として、いくつか記しておきます。

一つ、「高校入試」の扱い。
第II部、第3章の「高校入試・進学率上昇の影響」 (pp. 119-131)
をしっかりと書き残したことを高く評価します。3.3で語られる「限界」も含めて、「事実上の必修」を語るための土台がこの章があることによって、確かなものになったと感じています。この章での考察を支える先行研究としての、

  • 河村和也, (2010), 「新制高等学校の入試への英語の導入 (1) その経緯と背景に関する基本問題」
  • 河村和也, (2011), 「新制高等学校の入試への英語の導入 (2) 1952年度の入試をめぐって」

が持つ意味・意義を、少し広い視野で考え直して見たいと思っています。
というのも、河村氏の現場の教師としての豊かな経験と見識があればこその、研究者としての視点と立脚点なのではないかと思うからです。

次に、章でいうと一つ戻りますが、第2章での「加藤周一」の扱い。
寺沢氏が長野県出身ということが影響しているのかよくわかりませんが、「事実上の必修化」議論の中で、加藤周一にスポットライトを当てたことに少し驚きました。
この『寺沢本』を読む前の、私の理解は概ね次のようなものでした。

昭和30 (1955) 加藤周一 (雑誌世界) 「信州の旅からー英語の義務教育化に対する疑問―」として英語教育を取り上げた。―― (大要) 日本の中学生の中で、将来仕事の上で英語の知識を是非必要とする数は百人に一人あるかどうか、その一人のために百人に強制するのは意味がない。全員に漫然と不十分なことをするより、一部の生徒を少し徹底して教育することが必要で、中学生に英語を通して国際的視野を与えるなどムリであり、その程度のことは、英語に限ることもない。 (鈴木忠夫 『学校英語はなぜ悩迷するか』 (リーベル出版、2000年、pp. 194-195)

少し前のものだと、

なお、前記の中学校における英語授業が生徒に課する負担の問題に関連して、前年、すなわち昭和30年に、雑誌『世界』 (12月号) に加藤周一氏が寄せた「信州の旅からー英語の義務教育化に対する疑問」という一文があったこと、さらにその続編「再び英語教育の問題について」が33年 (2月号) に発表されたことに注目したい。氏の所論は英語教育無用論でもなく英語教育一切廃止論でもない。将来英語を実用に供する機会を持ちうる生徒にのみ徹底的に英語教育を施すことを考える必要がある、というのである。(昭和2年の藤村作、昭和4年の野上俊夫両氏の所論を想起する)。この2編の文章は賛否両様の反応を生んだが、この時点での英語教師の対応と、約20年後の昭和49年の平泉渉氏試案への対応とを比べてその間にどのような相違が見られるだろうか。 (石井正之助 「検討・反省期に入る[昭和31年〜35年]」、若林俊輔編集 『昭和50年の英語教育』 (大修館書店、1980年, p. 98-99))

というような理解でしたから、第2章での加藤周一から平泉・渡部論争への件は大変勉強になりました。

続いて、2.6でまとめられた「小学校英語論争」。
とりわけ、pp.107-108での視点、

  • 「基礎教育」としての中学校英語教育

という束ね方で、小学校英語論争からの投射によって、「事実上の必修化」を語る「目的論」を浮かび上がらせる手際が見事だと思いました。
この手際の良さは、終章で、

  • どのような英語教育の目的を構築すべきか (pp.253-256)

にも発揮されていると思います。脚注のような形で、靜哲人氏の著作が引かれていますが、ここでは実は著者が大きく顔を覗かせているというか、脚注の声の方が実は大きいのではないか、という気がしました。「基礎教育的目的論」 (とその限界) に関しては、寺沢氏もおそらく読まれただろうと思いますが、「地道にマジメに英語教育」でお馴染みの、山岡大基先生の論考、

が参考になろうかと思います。

「小学校英語教育」の議論から、「中学校の英語授業の事実上の必修化」に至る「目的論」が浮かび上がったわけですが、そのような「投射」を考えるのであれば、「公立小学校での必修授業」の対極にある「私立小学校での授業」を考えてみることも有益だったのではないかと思いました。
参考までに、

外国語教育の目標は「国際的視野をもつ人格の育成」にある。この目標に到達するには Communicationとしての生きた外国語を教えなければならない。したがって従来のような読解中心的なものでなく、音声を主体とした教授法が重要となってくる。それには肉体的、心理的に早教育が有利である。なぜ有利であるかというと、小学校児童の特性として、聴覚が鋭敏であり、模倣がうまく、機械的記憶が強く、反復にあきない、という点をあげることができる。以上は神経学者、心理学者の実証するところであり、外国語教育をはじめる時期は12歳からという中学にはいってからではなく、10歳以前の小学校からはじめるほうがより大きな効果を得ると確信するものである。 (野上三枝子 「小学校外国語教育の意義」、成城学園小学校英語研究部著『小学生の英語教育』 (国文社、1969年、pp.29-31)

ほとんど知られていないような資料ではあるのですが、昭和39年 (1964年) に発足した「東京都私立初等教育研究会外国語部」の会議録や、当時、英語または仏語を教えていた私立35校の中から数校のカリキュラム表も示されていて興味深いものとなっています。

本書では、「日本の学校英語教育戦後史」を扱っているわけですが、彼我の差による投射ということを考えると、例えば、「英国における学校教育での外国語教育目的論」などから浮かび上がるものもあるかも知れないと思って再読したのが、こちらの、Shirley Lawesによる “Why learn a foreign language?” という一節。

The justification for and position of modern foreign languages in the school curriculum has reflected different understandings of the aims and purposes of education at different times. There are many good historical accounts of the development of modern foreign languages in the school curriculum (see e.g. Hawkins, 1987 or Rowlinson, 1994) which provide a useful background to the current status of languages in schools. The introduction of the National Curriculum for Modern Foreign Languages 1991, was a landmark in language teaching in that for the first time curriculum content, approaches to teaching and the assessment of learning were all carefully prescribed for the whole compulsory secondary age range. The national curriculum identified the educational purposes of teaching a modern foreign languages as being, among several other things:
To develop the ability to use the language effectively for purposes of practical communication and to form a sound base of the skills, language and attitude required for further study, work and leisure. (MFL Working Group, 1990)

初等中等教育の学校教育課程における「外国語教授」では、PalmerやHornbyらの日本での知見・業績があったからこそ、ELTのプロトタイプが形成されていったという見方もできるだけに、「英国」でどのように「学校教育における外国語教育目的論」が展開されているのかは興味深いと思うのですが、MFLでの考察の詳細は、Kit Field編著 (2000年)、

  • Issues in Modern Foreign Languages Teaching, Routledge/Falmer

を、そして、懐に余裕のある方は、是非、Richard Smithの編んだ、

  • Teaching English as a Foreign Language, 1912-1936: Pioneers of ELT (Logos Studies in Language and Linguistics)
  • Teaching English as a Foreign Language, 1936-1961: Foundations of ELT (Logos Studies in Language and Linguistics)

を英語科の予算で揃えて、私に貸して下さい。お願いします。

さて、
ここまでいくつか感想を書いてきました。
過去ログで、私は次のような「?」を投げかけていました。

「序章」で書かれている雑誌の言説を「データ」として分析を実証的に行おうという姿勢と、参考文献で扱われている「書籍類」の取捨選択の基準がどうなっていたのかが、すごく気になる。
「必修化」にまつわる様々な言説をまとめているのが本書ですが、宍戸良平を引く部分で、「英語教育課程論」(『英語教育論』現代英語教育講座1、研究社、 1964年)などは捨て置いたということなのでしょうか?「教育課程の基準における外国語の位置づけ」の中で、必修か選択かについても宍戸の持論を述べて いる個所が出てきます。
他にも、雑誌以外の扱いで、たとえば、伊村元道『日本の英語教育200年』(大修館書店、2003年)は文献で扱われているのですが、若林俊輔編集『昭和50年の英語教育』(大修館書店、1980年)は扱われていません。

それに対する寺沢氏の回答は次のようなものでした。

この点については比較的方針がはっきりしていまして、雑誌も書籍類も言説データとしては等価と見なしています。ただし、雑誌のほうが、「全体( or 母集団)」が設定しやすいので雑誌を優先的に分析しています。
そのため、書籍については、雑誌の分析では確認できないような知見が得られる書籍が見つかった時に紹介するというスタンスをとっています。たとえば、禰津 (1950) や新英研系の本など。

ということで、本書には、要所要所で、雑誌以外の「書籍」からの知見が引かれています。そして、それを足場として、考察は深められています。ただ、「雑誌では分からなかった知見」に気づく、見いだすのが寺沢氏である以上、その篩い分けの基準、観点には寺沢氏の「モダリティ」が反映されているのだろうと思いました。読み手としては、

同じ著者の言説を引く場合でも、何を掬い、何を捨てているのか?そして、それはなぜか?

にも少しだけ考えを及ばせた方が良いだろう、というのが正直な感想です。

とまれ、日本の英語教育の「戦後史」だけでなく、これからの時代をリードして行くであろう、優れた研究者の、素晴らしい著作を、さらに時間をかけて読み込もうと思います。

最後に、「新英研系」を代表するであろう「単行本」からの一節を引いて内省に一区切りつけようと思います。

「役にたつ」というのは、いったい何のために役にたつのか、考えてみる必要があります。今日本で政治経済を握っている人たちに都合のよい英語、そういう偉い人たちが、この「役にたつ英語」というのを盛んに奨励しています。ところが何のために役にたつかといえば、日本の政治や経済を支えてゆくのに都合のよい英会話などを中心にした学力です。「役にたつ英語」を奨励していることは、外交や貿易に従事して、政治の権力を握っている人たちに仕えるための英語、もっと分かりやすくいえば、そういう人たちの考え通りに、下僕として英語を話したり書いたりすることです。
日本をほんとうの意味で独立国とし、国民にゆたかな生活を保障するために必要な「役にたつ英語」こそが、わたしたちには必要なのです。
マルクスのいった “A foreign language is a weapon in the struggle of life.” の意味を、もう一度しめくくりとして、かみしめていただきたいと思います。 (『井上正平の英語教室』 (日本青年出版社、1972年、p.14))

本日のBGM: A man of great promise (The Style Council)