「なんで英語やるの?」

tmrowing2013-11-02

基準日には遅れたけれど、anfieldroadさんの恒例の企画にひっかかった記事をば。「お題」は、

  • 生徒に、『なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんですか?』と訊かれたら、何と答えますか。

今まで、anfieldroadさんの企画には毎回参加してきたのではないかな、と思いますが、今回の「お題」を見たとき、「これは、私には答えられないな」と思いました。
「そんな質問を生徒がするということは、あなたの指導法が間違っているからだ」とか、「あなたの授業を生徒は詰まらないと思っているから、そういう問いが発せられるんですよ」などと卓袱台返しをする積もりは毛頭ありません。そもそも、公立学校での人事異動で担当学年が変わったり、所属校が変わったり、時には学校種が変わったり、他の市町村や都道府県へと人事交流したり、と「英語」教師としての変数も多種多様です。それでも、自分の “teacher’s belief” を揺すぶることができるか、ということを考えるためには、この問いは重要だな、と思うので、自分の回答がなんらかの一般性や普遍性を持つとは考えにくいのですが、記事にして見ようと思い直した次第。

ただ、この企画の趣旨を理解した上で、質問文を、

  • 「なんで英語を学ぶのか?」

もっと砕けば、

  • 「なんで英語やるの?」

というところまで落とし込んでおきたいと思います。作文コンテストなら、「除外」か「失格」ですので、その積もりで読んで頂ける方だけ、お読み下さい。
今回は、リンクも張りませんし、トラックバックもしません。喩えて言えば、ボイコットで参加できなかったモスクワ五輪に合わせて一人タイムトライアルをした (といわれる) 津田選手のような心境です。

さて、
「なんで英語やるの?」というフレーズを聞いて、私の世代がまず思いつくのは、ベストセラー、

  • 中津燎子 『なんで英語やるの?』

です。寺沢先生の回答となるブログ記事は、そのあたりまで掬い取るかのようなタイトル付に感じられました。流石だと思います。

この「なんで?」が曲者。私の英語の授業では、「どどいつ」の「ど」の仲間として、

  • どうして (=「なぜ」;理由)
  • どのように (様子・方法)

というオプションがあるのですが、どうしてどうして、副詞 (句・節) は奥が深いので、「なんで?」という問いは、

  • 何のために (目的)
  • 何を用いて (道具・材料)

という前提を持っていたりもします。
今回の私の回答は、
理由や目的ではなく、

  • 「道具・材料」

の「なんで?」というところから始まることになろうかと思います。
そして、その問いに対する答えはもう、単純明快。

  • 「教材で」

学ぶのです。教科書であれ、辞書であれ、「教材で」学ぶことが学校教育での英語授業の基本・根本です。だって、「学び」なんですから。
最初に、「今回のお題は書けそうにない」という話しをしましたが、この1週間の授業というか、生徒とのやりとりで、「ああ、やっぱり書いておこうかな」と思わせるエピソードが2つありました。一つは生徒を揺すぶるもの、もう一つは、教師としての自分自身の足元を揺すぶるものでした。その2つを振り返り、今回の「お題」の回答に代えたいと思います。anfieldroad先生、何卒、ご容赦を。

一つは、進学クラス高1の「ホワイトボード」作業です。
私の実作では、「名詞は四角化で視覚化」の一環で、「ワニの口」という記号付けをしていて、そのワニの口の仲間として「名詞節」を扱っています。 (概要は過去ログ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20131030 をご覧下さい)
その「名詞節」の概論と、既習事項での確認、初見の英文での実習を終えて、「学級文庫」にある、10冊くらいの英和辞典、英英辞典からの「用例採取」をしてもらった時のことです。ホワイトボードの1面には that節を、もう1面にはwh-節を転記する、という作業でした。
生徒が「完成」した英文リスト、それは、もう、ことごとく辞書のthatのページ、wh-のページにある英文用例を写したものだったわけです。中には、関係代名詞のthatや同格のthatを含めている者もいたり、関係副詞のwhenやwhereを含めている者もいました。「何が求められているのか?」が本当には分かっていない中、「やれと言われたからやった」というレベルの作業で終わっていました。
生徒には、

  • 名詞・代名詞を身近な人名や地名、作品名に変えても根本的な解決にはならない。
  • ワニを使わざるを得ない環境をどう作るか?この後はワニが来るよね、という「動詞」の実感をどれだけ持っているかが問われている。
  • 中学レベルの教材で、「ワニの口」、しかも、とじかっこが中にある例に出会うことは少ない。「ことがら」は、具体的な名詞や、代名詞でまとめ直して処理することがほとんど。そこが高校レベル以上の英文を読んだり、聞いたりする時の弱点となる。

という話しをして、ダメだし、やり直しをさせました。その時に、生徒に伝えたのは、次のようなことでした。

今では、オンラインコーパスといって、検索語を複数打ち込めば、たちまち誰かがお膳立てしてくれたデータベースから、その語句を含んだ用例が提示される。でも、rememberとthatを入れて、ワニの口でthat +四角+とじかっこ、が続く用例を採取しようとしたときに、

  • Do you remember that little girl you met at the station yesterday?

などという英文も含まれている可能性がある。人間の頭脳は、これを排除できるわけ。なぜか?意味の処理をしているから。意味と形を摺り合わせて、篩にかけているから。
確かに、辞書の用例には欠点・欠陥がある。近づけば息づかいが聞こえる、触れば体温が感じられる、斬れば血が滲むような英文は少ない。でも、日常生活で、意味と形の摺り合わせをして、自分の中でルールを作りながら、前回のプリントにあるような英文を自分の中に取り込もうと思ったら、膨大な時間が必要となる。母語を話し出すのに、1年半。文の内容をことがらとして話し出す、書けるようになるにはその後さらに数年。それでいて、幼稚園児の絵日記よろしく「かぎかっこ」にいれた、引用符に括られた直接話法で伝えるのが先。では母語でもいつになったら、この「ワニの口」を使いこなすのか?英語の「学習」というのは、それをもっと濃密に生きる、私がよくいう言葉であれば、もう一つの自分のことばとして「生き直す」プロセスなのだ。

辞書にある用例をいくら精査し、吟味してホワイトボードに書いたところで、それはただ「ヨコのものをタテにしただけ」で、自分のモノにはなっていません。でも、そこに自分がちゃんといれば「学習」における「大事なこと」が身につくと思っています。言葉を素通りしない、させないとでも言えばいいのでしょうか。(言葉の授業でも、国語という教科では、大村はま先生の『国語教室通信』などを読むと、そういう感覚を持つことがあります。) そのためにはやはり「素材」「学習材」「教材」の是非、適否が問われると思うのです。

もう一つのエピソードは、高3の受験生と面談していたときのことです。
高1、高2と教えてきて、高3でも教えている生徒です。例によって、私は過去問演習をあまり重視していないのですが、志望校対策で個別の取り組みをする前に、模試の結果分析をしておこう、ということで面談となりました。まったく問題演習をしていない高2の半ばで模試の英語の偏差値は65を超えていて、英検の2級も2年生の終わりには受かるかな、と思っていましたが、3年になって模試の成績も下降気味で、高3の担任からも「英語何すればいいですかね?」と聞かれることがあり、私自身、気にはなっていた生徒です。高3の別の科目では、頻出過去問から作られた読解と文法語法のテキストで演習をしてもらっていて、そこでの取り組みも担当者から聞いてはいました。その授業での教材も基本的に私が選んでいて、授業での進め方、指導内容など、「この時期はそれでいいでしょうね」「2学期で、私の授業がここまでいきますから、噛み合ってくるでしょう」などと情報交換もできていたので、その生徒がどうして模試の成績が振るわないのかが今ひとつ掴めていませんでした。模試の結果と英検の結果を見ると、読解はできているのに、語法文法と英作文が今ひとつ。リスニングも短文の処理で落としていました。
今日は、受験したばかりのセンター模試の英語の問題を前に、retrospective dialogueとでもいうのでしょうか、「問答法」で、どのように読み、意味を処理して、解答を選んでいるかをあぶり出してみることにしました。そこで愕然としたのです。センター第2問の語彙・語法・文法問題。

  • 文全体の意味の処理を全くせず、または不十分なまま、空所の前後の形合わせだけで条件反射的に問題を解いていることが多い。

のです。私の「ライティング」の授業で、「診断テスト」をやっているときは、曲がりなりにも主語の選択から、意味順で英文を作っていくのですが、そこで「作った」英文とほぼ同じ文法項目を含む英文も、空所の前後の単語に引きずられているのか、誤った選択肢を選んでいました。
詳しく聞いていく中で分かったのは、「赤いフィルター」を使って問題集の復習をしているということでした。しかも何度も。そして、英検の問題集でも同じように、文完成の選択問題を赤いフィルターで復習している。意味の分かっている単文の復習では、意味の処理を省きますよね。復習を真面目にやる生徒ですから、形式のみを拾う作業を、素早く反復していたわけです。家庭学習が「解法の暗記」作業になっていくうちに、どんどん「英語」ということばから離れていってしまったように思いました。
この生徒に言ったのは、

厳しいことを言うようだけれど、今の英語の感覚ではダメ。高2の時よりも英語から離れてしまっている。受験生だから、問題集をやるなとは言いません。授業の教材も選んでいるのは私だから。やるなら「精選された過去問」というのも妥当。でも、文を作るというのは、自分の頭の中で意味の処理をして、それを形の上で整合させるということだから、空所補充を赤いフィルターでやってもだめ。むしろ、答えを埋めた英文をノートに書いておいて、「L板」で文頭からスライドさせながら、逐次処理で、次に何が来たら意味は整合するか、を問い直し確かめる方がいい。結局、それが「意味順」であり「診断テスト100題」だから。あたかも自分がその英文をしゃべって、書いているように、英語をやらないと。この連休中は、問題演習をやるよりも英語に戻って、英語の感覚を取り戻すことに専念して。読解問題も、リスニングのスクリプトも、問題演習よりは、その素材の英文を「生き直して」!

ということ。自らの足元を揺すぶられた思いでした。
同僚批判と受け取られるのは本意ではないので、演習科目の担当者もきちんと授業をしていることを再度念押ししておきます。
問題は、授業を受けて「分かった」というところから、自分の学習が始まる、その時の「方法」と「マインド」とでもいうのでしょうか。同じ教材、素材文を使っても、「方法」を間違うと、言葉からどんどん離れていってしまいます。家庭学習まで含めた、もう一つの「どうして?」である「どのようにして=方法」の重要性を再認識したエピソードでした。
今回のanfieldroad先生の「お題」には、「教材」と「指導法」裏返せば、「学び材」と「学び方」を見直す絶好の機会を与えてもらったと思っています。もともとは、「自分の指導を初めて受ける生徒・学習者」を」前にして、裏返せば、「これまで、自分以外の英語教師に教わってきた生徒・学習者」を前にしたときに、どう接するか、というような、ちょっと改まった、余所行きの「揺すぶりのススメ」的な始まりだったのですが、書き終えてみれば見れば、一番揺すぶられたのは自分の足元、根幹であったというオチでした。多謝深謝。

模試監督も面談も終え、床屋に寄ってうたた寝してから、帰宅。
家に届いていた、

  • 光岡英稔、甲野喜紀と武の縁を語る (Saint Cross)

のDVDを見る。演舞のBGMが五月蠅すぎなのは減点だけれど、メインは対談なので。
甲野先生が語る、「再現性」の問題点は、私が広島の講習会で感じたことでもあり、今回の高3生受験相談で浮かび上がったことでもあるなぁ、と実感。

晩酌しながら日本シリーズ。
「物語を引っ張りすぎだな」というのが正直な感想。
久しぶりにビリー・ブラッグを聴いて眺めて、彼の言葉を噛みしめて就寝。

本日のBGM: Swallow my pride 〜 There will be a reckoning (Billy Bragg)