obituary and orbiter

この週末の正業の一大イベントとしては、東京でELEC同友会英語教育学会の研究大会がありました。
拓殖大学にて。
私が部長をしているライティング研究部会は「高等学校の新課程教科書における『要約文完成タスク』」に焦点を当てた研究発表。私は残念ながら今年も欠席。というか、地元で本業の県体育大会。全国選抜大会の県予選も兼ねています。だいたいこの時期に重なるのです。
新人の公式デビュー戦でもあるレース結果は惨憺たるものでした。前の週にテストの合間を縫ってわざわざ現地に来て、艇のセッティングを確認してあるので、選手はレースをするだけ。引率そのものはもう一人の顧問の方にお願いしても問題ない状況です。レースのタイムには目をつぶるとして、レースプランの確認にしても、直前の技術確認にしても、この日の取り組み、パフォーマンスを振り返ると、私がいる必要があったのか疑問に思いました。レースに出る意味があるのかも併せて、考え直す必要があるかも知れません。
各校の顧問での会議があるので、選手はもう一人の顧問の方に送ってもらいました。会議終了後、一人でオールを近い方の湖まで運び、艇庫に収納。リギング中の大学生に挨拶して撤収。
心身共に疲れていて、『フランダースの犬』の主人公の少年の気持ちが少しだけ分かるような気がしてしまいましたが、自分を励ます意味も込めて、ご褒美を買って帰りました。

カナダでは、GPシリーズ第二戦。
鈴木選手、羽生選手が2位。ファイナルへと望みを繋いだ結果になりました。先週のスケートアメリカでは、14歳のラディオノワに驚き、トゥクタミシェワとソトニコワという傑出した才能に言及したのですが、ロシアにはもう一人天才少女がいることを忘れていました。

  • ユリア・リプニツカヤ

15歳は五輪の出場資格があるんですよね。自国開催のソチ五輪。出場枠が「2」って、暴動が起きてもおかしくないですよ。
日本のジュニア選手の強化は上手くいっているのでしょうか?
自分のチームの強化は棚に上げておきます…。

「呟き」では、明け方のTLが訃報で埋まっていました。

  • ルー・リード死去

驚きました。喪失感は大きいです。当然ベルベットアンダーグラウンドには、リアルタイム感はありません。後追いで聴いていただけです。ただ、ソロになってからの彼の音楽、そして「詩」には私自身多大な影響を受けてきました。
大学時代は、

  • ロックンロールダイアリー

という2枚組のベスト盤レコードを繰り返し聴いていました。これは、所謂アナログ盤の方が曲数が多く、代表曲をカバーしているように思います。今も、当時アナログから録音したカセットテープがありますが、今の私の部屋には、カセットテープを再生する機器がありません。まさに「眠っている」状態ですね。
Paul Zollo の ”Songwriters on songwriting” (私の手許にあるのは、2003年の増補第4版) では、 2000年の彼のインタビューが載っています。

Music was what bothered me, what interested me. I always believed that I have something important to say and I said it. That’s why I survived, because I still believe I’ve got something to say. My God is rock and roll. It’s an obscure power that can change your life.

という印象的な引用で始まるインタビューの冒頭で、songwritingの「奥義」が語られます。

“I don’t know how to write songs,” Lou Reed says. We’re in a hotel dining room in Denver, where he is trying to cajole a decent meal out of a very flustered waiter, less than two hours before he is to perform with his band at the old Paramount Theater around the corner. “I really don’t know how I write songs. But I do know how not to write songs. I know how to screw it up. so I spend my time removing the things that get in the way of it. The impediments that block it. The negative things, the attitudinal things. And since I know how to screw it up, I know how not to. Just don’t do those things that get in the way of it, and then it can start.” (p. 683)

まさに、奥義だと思います。

伝説は終焉し、また一つ新しい週の始まり。
そして、自分の実作。
授業は進学クラスのみ。
高1は、「ワニの口」の再整理。ワニの生態観測をする「ワニマニア」か、ワニ園の飼育係ですね。
高3は、GTEC Writing Trainingから、argumentative writingの課題を少し進めて、解答例を確認。

  • 理由付けの部分に、更なる意見を書かないこと。
  • 主観的形容には必ずサポートを付けること。

を徹底。そのためには、やはり「アイデアジェネレーション」が肝であり、そのアイデアジェネレーションを実際の作文へと活かすには、テーマ語彙が鍵なのです。
巷の「自由英作文」の教材では、とかく、「頭出しチャンク」などの定型表現ばかりが取り上げられますが、つながりとまとまりがあまり考慮されていないように思います。高校生段階の作文でマイナス評価になるのは、その多くが、頭出しチャンクの後、定型表現に続く部分での「英語になっていない表現」です。その部分を「トレーニング」するためには、テンプレートのような形で、トピックセンテンスも含めた構成や枠を固定しておいて、実質を語るスロットとでも言える部分に入れ替えの利くテーマ関連語彙・表現をたくさん並べて取捨選択するような活動の方が、旧来型のトピックセンテンスを考えてから、そのサポート、理由付けを書かせるという指導よりも教室での取扱いが容易ではないかと思っています。テンプレートのお手本としては、

  • 日向清人 『即戦力のつく英文ライティング』 (DHC、2012年)

や、

  • 和田朋子 『はじめての英語論文 引ける・使える パターン表現&文例集』 (すばる舎、2007年)

といった、「本当に英語という言葉が分かっている人」の手による良書が出ていますので、参考にしてみてはいかがでしょう。
後者の和田先生の本は、最近増補改訂版が出たばかりです。

増補改訂版 はじめての英語論文 引ける・使える パターン表現&文例集

増補改訂版 はじめての英語論文 引ける・使える パターン表現&文例集

でも、改めてこの二冊を並べてみて感じたことですが、著者の日向先生も和田先生も世代こそ違え、「帰国子女」なんですね。高校段階での適切な指導があれば、150語程度の分量で、narrative, expository, argumentativeな英語でのライティングができるようになるというのが、これまでの私の信念でしたが、「子どもの頃」に、英語で書くことときちんと向き合っていることが大切なのかな、とも思い始めています。メディアでは観測気球の打ち上げなのか、小学校からの「英語教科化」が取り沙汰されていますが、「読むこと」「書くこと」まで含めて、どのようにL2としての英語が発達していくのか、「カリキュラム」や「シラバス」が見通せない、思いつきや行き当たりばったりな「施策」では、実りは期待できないように思います。言い古されたことですが、Native speakersはどの言語にも存在しますが、native readersやnative writersはいないわけですから。

今日、職場に届いた本をご紹介。

  • 安井泉 『ルイス・キャロル ハンドブック アリスの不思議な世界』 (七つ森書館、2013年)
  • 安井泉 『英語で楽しむ英国ファンタジー』 (静山社、2013年)

学級文庫には、『…のアリス』も入っているので、後者は生徒にも紹介しておきました。
著者の安井泉先生は「英語学」や「音声学・音韻論」をそれなりに学んだ英語教師にはお馴染みでしょうから、日本ルイスキャロル協会会長という肩書きはあまり必要ないと思いますが、前者は二段組の情報量豊富、資料価値満載の「ハンドブック」です。私自身、何も知らないで作品を読んでいたなぁ、と実感。
後者は、「ファンタジー」、「児童文学」作品の、英語を読む、という「指南書」「水先案内人」のような内容です。昨今の「多読」的な読み方とは対照的と言えるかも知れません。楽しんで英語で読んだあとで、再度、再々度、「ことばを読む」ための目の付け所、頭の働かせ方を教えてくれます。
あとがきに当たる部分で、安井氏はこう言っています。

普通の小説を読んでいると、あたかもその中に自分が入り込んだような気持ちになります。ファンタジーは架空の物語であるがゆえに、少し距離があります。ちょうど、舞台で行われている芝居を見ているような気に私たちをさせるのではないでしょうか。わたしたちは、このほどよい距離感に安心して、ファンタジーを読みながら実にいろいろなことを、考え始めます。本を読むということは、そういう思考の総体を言うのですが、その思考の総体がどんどん大きくなっていくのを感じることができるのも、ファンタジーの醍醐味です。ファンタジーには、私たちの想像をたくましくさせるエネルギーが詰まっています。 (pp. 230-231)

荒川洋治の言葉を引いた後、安井氏はこう続けてもいます。少し長いですが、「英語教師」として心しておくべき大切な指摘でもあると思いますので、引いておきます。

ファンタジーもこのようにして、ありとあらゆるものをへし折って書かれているのです。子どもの頃にファンタジーを読むと、へし折られた残りをそのままに読むことになるのでしょう。しかし、大人になってからファンタジーに再び出会うと、へし折られてでき上がっている作品を、十人十色で復元しながら読むことになります。へし折られたファンタジーの作品は、1枚のスライドのようなもので、それを照らし出す光源こそが読者そのものなのです。それを照らし出すそれぞれの読者の光源は同じであるはずもないので、スクリーンに映ぜられ結ばれる像も異なってくるのです。復元して読むためには、へし折られた断片を通して、物事を大きく想像する力が読者自身にそなわっていなくてはなりません。それが自由にできるようになった大人にとって、ファンタジーは子どものころに読んだのとは別の姿を見せ始めるのです。子どもの頃には感じることができなかったファンタジーの魅力を大人になって初めて感ずることがあるのは、まれなことではありません。それは、心の幸せな成長があったからこそ実現しているのです。 (pp. 232-233)

本日のBGM: Satellite of Love (Lou Reed)