「右は右らしく、左は左らしく」

国体が終わり、失意というか胃の痛い日々がしばらく続いた。
自分が先へと進むために何かが必要だとは思っていたが、それが何かはよく分からず、「呟き」でY先生から回ってきた情報を元に先週末は広島まで。

  • 韓氏意拳講習会

講師は、

  • 光岡英稔導師

とにかく「凄い」のですよ。動きの次元が違うというか、違う空間で違う時間を生きているというか、でもそこにいるんですけど。
日本の指導者の最高位ということですが、笑顔のとってもチャーミングな方でした。
図々しくも、最後は夕飯をご一緒してしまいました。
初級というか入門編というか基礎の基礎だけを午後の6時間。途中30分程度の休憩を挟んで、立つことの基本と動くことの基本を教わった。「教わった」というのは適切ではないかも知れない。「導いてもらった」というようなことになるだろうか。
実際に自分で動いて、導師に手を取ってもらい動きを修正するわけだが、型にはめるのではなく、「自分の身体に気づく」瞬間が次々と訪れる貴重な体験だった。

  • 「生きること」「生きていること」「自分がいること」「自分であること」

から始まり、

  • 「自然体」「自然な動き」「自分らしさ」

を説かれていて、本業でのOコーチの言葉と重なって聞こえた。
常識や先入観を取っ払って、「自分の身体を観る」ことが求められる半日。

  • 上下方向、タテの安定性
  • 水平方向、ヨコの動力性
  • 指先から足裏、つま先までがひとつながりで、関係性を持った動き (同期や連動)

という段階を踏んで進んでいった。
立っているときには安定できても、そこから動けないとか、動こうと意識して安定が崩れるという段階から、大きく崩れているわけではないが、下半身と上半身の「つながり」が切れるのが自分で分かったりするところまで、新鮮な身体感覚への「気づき」。
本業でいう「身体各部のつながりがある状態」、正業でいう「英文のつながりとまとまり」ということとも結びつくなぁ、と実感。
印象に残ったのは、

  • 見ないで、観る。目はつぶらない。
  • 頭が身体まで降りていく。脳も身体の一部。
  • 踏んだらその分戻れないと。
  • うまくいかないのは「失敗」ではなく「転機」。しかし、「機を探すべからず」。必ずやって来る。
  • 「再現性」はない。上手くいった動きをくり返そうとしない。その都度、その都度仕切り直し。一日たりとも同じ朝日が昇ったことはないのだから。

ということ。特に最後の二つは今の自分に大きく響いた。

「韓氏意拳」初体験でしたが、むしろ、初体験であったが故に、近代競技スポーツに浸ってきた、自分の身体操作、身体感覚にとって、新たな「芽生え」「目覚め」になったように思います。
Y先生、Yさん有り難うございました。そして、光岡先生有り難うございました。
次回はいつになるか分かりませんが、チャンスが来たときに動ける自分でいたいと思います。

翌朝、シャワーを浴びたときに感じたのは、お腹のくびれというかくぼみ。普段、お酒を飲んでばかりなので、皮下脂肪、内臓脂肪ともに私のお腹には「とっぷり」まとわりついているわけですが、まるでドローイングで腹横筋に「効いた」後のように、腹直近のタテの筋とその横の凹みができていました。
肩甲骨周りでの変化も顕著。広背筋に異様とも言える充実感があったことに驚き。講習会では、ただ腕をゆっくりと動かしていただけなので、「パンプアップ」とか、その後の筋肉痛などの筋トレをやったあととは明らかに違う感覚。「ここまで自分の身体だったんだ」とでもいえばいいでしょうか。そして、股関節周りというか「臀筋」を、椅子に座っている状態で感じられるようになっていたこと。これは現役で選手だったころの「ケツが使える」感覚に近いもの。「そうそう、以前はここまで自分だったなぁ」といったところでしょうか。

山口に戻って、この一週間の実作はとりたてて新しいことはありません。唯一の変化は、文化祭前で学年やクラスでの準備の時間が設定されているので、時間割変更、授業のカットがあること。

看護科では、『おべんとうの時間』を紹介し、発音練習から、本文の記号付けを経て、対面リピートからFlip & Writeなど、定番メニュー。彼ら彼女らにとっての「新鮮な仕切り直す朝日」となっているかしら。

進学クラスは、高3ライティングがようやく “expository” な英文へ。GTEC Writing Trainingと『即戦力…』との併用です。高2までに扱った、「金槌」と「かなづち」、動物園とサファリパーク、保健室と保健所、エスカレーターと動く歩道など、「定義から説明」の課題を思い起こせるかが大切です。

高2は、『話せる音読』を一つ進みました。「中学レベル」を謳う教材ですが、高校レベルの表現が散見されましたから、ちょっとわからない表現に遭遇して機能停止になる人もいます。止まらないに越したことはありませんが、止まっちゃった人は、その後どうするかを、身につける必要があるのです。そして、その「どうするか」も、やはり人それぞれなのだと思います。

高1は、キング牧師関連の素材文を「意味順スロット」に放り込む「復習」の時間をとってみました。意味が分かった英文をどう利用して整理していくか、まずはやってみることです。週最後のコマでは、 ”Who was …?” の新たな章を読んでもらいました。偶々、文化祭の展示の準備で「大学進学を取り巻く環境」を考えたり、オープンキャンパスのレポートなど「個別の大学リサーチ」もやっているので、キング牧師の大学時代の話しも少しはイメージできるのではないかと期待します。

さて、
世間を賑わす情報が「ニュース」になるのはいいのですが、「知るにふさわしい情報」なのか、ニュースだけではわからないことが多すぎます。

「呟き」でも何回か吐きだした、

大阪府教委が公立高入試に英検やTOEFL活用へ、平成29年度から
http://resemom.jp/article/2013/09/24/15300.html

という施策に関して、疑義・異論。
大学の入り口や出口でのTOEFLの採用とは次元が違います。大学進学率と高校進学率の差をもっと「現実問題」として捉えた「報道」がなぜなされないのでしょうか?英語教育や言語テスティングに関わる「学会」はこれを看過して良いのでしょうか?

英語の入試をする代わりに「外部試験」を使うのではない、ということが正しく認識されているでしょうか?
TOEFLとIELTSとの換算のように何らかのデータに基づき、「換算式」をはじき出してTOEFL iBT60点を府立高入試の100点に換算可能だとしましょう。換算式が正しいのであれば、府立高入試で100点の受験生はTOEFL iBTで60点取れることになるはずです。ですから、両方受けてどちらか良い方が出た時点でその「換算式」は正しくないということになります。どちらかを取る、という選択肢は妥当性を欠くことになるでしょう。換算可能なら府立高入試だけでいい、と私がいうのはそういうことです。
さらに、「換算」する際に、英検の準1級は100点というのですが、じゃあ1級は何点なのでしょうか?120点?200点?私の実感として、1級と準1級の間の壁は厚く、溝は深い気がするのだけれど、では「入試」の満点よりも高い得点ってどういう意味?

いったい、この「意志決定」に関わる有識者の中に「言語テスティング」の専門家はいたのでしょうか?どなたかご存じでしょうか?

また、英検は「資格」として広く認知されていますから、たとえば、府立高の入試で80点が取れた受験生 (情報開示請求すれば分かるでしょう) は、そのスコアを英検協会に送れば「英検2級合格証」が送られてくる、というところまで詰めてあるなら (または今後詰めるのであれば)、私も文句はいいますまい。

学級文庫から引き上げてきた、

  • 『ぼく、牧水!---歌人に学ぶ「まろび」の美学』 (角川one テーマ21、2010年)

を再読。『半沢直樹』ブームで、さらに売り上げが伸びているでしょうか?
牧水を引いて本日はお終い。

言葉さえ咽喉につかへてよういはぬこの酒ずきを酔はせざらめや
  『くろ土』

本日のBGM: AWAKE (COUCH)