上手の手から漏れる水

体育祭終了。
全校が紅白に分かれての「戦い」なので、一方が勝者、残るは敗者。私が担任している進学クラス1年が所属する色が勝ったようです。スポーツの特待生が沢山いる学校ですから、運動能力で明らかに劣る進学クラスの生徒が「リレー」などの種目で活躍することは正直難しいのです。体育「祭」とはいえ、参加して盛り上がれるのか、楽しめるのか心配していましたが、蓋を開ければ一種目だけ、3学年通じても一位の記録となり、表彰されたのでした。

  • 長縄跳び

今年は一列に並んでその場で跳ぶのではなく、クラス全員で (縄を回す人は固定ですけれど) 次々と駆け抜けていく跳び方でした。リズム感と身体操作、そしてチームワークがそれなりに要求される種目ですから、担任にとっては、「走るのが速い」ことよりも嬉しいかもしれません。ということで、終わりよければ全てよし。記念撮影を済ませ、私が不在の来週一週間の指示をして解散。

高1のやり直し教材行ったり来たり、高2の指定図書 (Oliver Twist) による「読書」、高3の表現ノートと、私の留守中の課題は明確なので、帰山後を楽しみにしています。
さて、
春先というのか初夏というのか、「英語教育」を取り巻くメディアは、やれ大学入試でTOEFL必須だの、高校の卒業要件でTOEFLを一律に課せだの、TOEFLに賛成だの、「反対の反対な〜のだ」などと騒がしかったのですが、「推進」する側、「支持」する側の声は随所で聞くものの「教育現場」を担う英語教師の声をきちんと取り上げるメディアもほとんどない状況です。
一方、「英語教育」をメインとする全英連 (全国英語教育研究団体連合会 http://www.zen-ei-ren.com/) などの組織体や、大学を中心とした「英語教育」に関わる学会組織であるJACET (大学英語教育学会 http://www.jacet.org/index-j.html) などが、正面から、このような「政策」について、意見を表明するということはなかったように思います。
その中で、先日、京都大学で開催されたJACETの国際大会で、「京都アピール」のような動きがあったことは大きな変化でしょうか。JACETのサイトではまだ公表されていませんので、速報的な意味合いの強い、大津由紀雄先生のブログでのレポートをお読み下さい。

『教職研修』の9月号では、「グローバル社会を生き抜くために」という副題がついていて、「待ったなし」というような「空気」「雰囲気」の醸成に荷担するかのようです。そもそも、この『教職研修』の想定読者は、公教育に携わる人たちでしょうから、文科省からの上意下達的な言説に対して、あからさまに異を唱えることは少ないと思いますし、政財界の動きに対して表だって抗うこともまた稀なのではないかと思います。そういった想定読者に対して、「説得力」を持つであろう特集の執筆者が、ここぞとばかりに持論を展開するのですから、勢い「自由闊達」「饒舌」「滑舌雄弁」といった筆致になるのも無理からぬこと。
新聞の全国紙での有識者の提言や放言、はたまた、『英語教育』 (大修館書店) などで、英語教育関係者が展開する「まじめな」論議に比べて、自信満々に映ります。
まるで、

  • ジャスティス、そしてフリーダム!

という声が聞こえて来るかのようです。
公教育に特化・限定しても、日本の英語教育が、全体的、平均的に上手くいっていないのは明らかでしょう。何かにつけ自信を持てないように土俵を狭められていく英語教師ですが、その多くは「自分がいるからこそ英語教育は今の水準にいるのだ」と、もっと胸を張った方が良いのだし、「みんなが上手くいっていない英語教育ですが、私はこんなに上手くいっています。だからあなたたちも私のやり方でやりなさい。これをやらないで、できない、上手く行かないと愚痴をこぼすなかれ」と自信満々に啓蒙してくれる「マッチョ」な人たちは、もう少し謙虚に、控えめに、自分自身に疑いの目を向けることが望まれるように思います。
私もどちらかといえば「マッチョ」な側に位置する言説が多いと自覚していますが、最近のメディアでのやりとりは息苦しく感じることが多いです。
最近メディアを賑わす「グローバル」というカタカナについての違和感は過去ログで書いたとおり。(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20121215
「世界で負けない」ことに意義を見出すのは強者の論理でしょう。ただ、その勝利は「国内」でも、多くの「敗者」「弱者」の踏み台の上にあることを自覚しているでしょうか?その問いを自らに向けられないような「グローバルリーダーシップ」は、公教育の場にはやはり適応しきれないのではないでしょうか?

  • 中原徹 「グローバル社会に必要な英語力」 (pp. 20-23)

の論理は明快ですね。在米10年以上、弁護士として活躍した「グローバル人材」の代表です。現在の大阪府教育長となる前に、大阪府立高校の校長として、卓越した英語力と国際感覚を駆使して「英語教育改革」を成し遂げた様子は、あちこちで「成功事例」として取り上げられています。特別授業を行う様子が動画サイトで公開されていますのでご覧になった方もいるでしょう。私も含め、多くの「英語教員」よりも英語運用力においては上だと思いますから、自信満々で生徒を牽引していく授業の様子は一般市民が見れば「拍手喝采」とか「快哉」を叫ぶほど素晴らしいものでしょう。特集記事で中原氏は、

私が務めた和泉高校 (偏差値でいうと中より少し高いレベル) では高校2年生から週2時間TOEFL対策の授業を受けていた生徒等が、60点から70点台を取得しました。 (p. 23)

と成果を誇っています。
でも、私の疑問・反論も明快なものです。
私のこれまでのTOEFL対策の方が優れている、ということではありません。 (過去ログ参照 http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20130720)
もっと根本的なマネジメントの部分で、

  • 全学年全クラスを、一人の優秀な教員だけで担当することは不可能。
  • 全府立高校で、同じ基準、達成度の授業を保証することは不可能。

というだけのことです。
中原氏が校長を「務め」つつ、上位の生徒または上昇志向の強い生徒を牽引していったのは結構ですが、その一方で「普通の生徒」は誰が担当したのでしょうか?「英語が苦手な生徒」は誰が担当していたのでしょうか?「その他大勢」の面倒を見るのは、その高校に「勤める」、普通の英語教師、言葉は悪いですが、英語の運用力で中原氏よりも劣る英語教師でしょう。そして、中原氏が教育長へと転出した後、この高校の英語科はどうなったのでしょうか?上位者はさらに伸びているのでしょうか?英語が苦手な生徒は激減したのでしょうか?そのような「楽屋裏話」や「後日談」は一向に聞こえてこないので、結局のところ、今巷で喧しい「施策」のほとんどは、波に乗って上手くいった人たちが、その後、美味い思いをするための後押しでしかないのではないか、と訝しさだけが増していきます。波に乗れなかった人、波に飲み込まれてしまった人にどのように目を向けるのかも合わせて考えるのが、為政者の「務め」ではないかと思うのです。

  • 小学校段階での「フォニックス」 (私個人は phonicsと英語表記をするか、「フォニクス」と仮名書きしています) の導入

にしても、「音声言語」でのコミュニケーションが曲がりなりにもできる英語の母語話者の指導環境から生まれた指導法を、「文字言語」優位と言われる東アジアの「漢字」文化に根ざした日本の教育環境で一律、画一的に取り入れても早晩行き詰まるでしょう。

過去ログのハイルマンの言葉をしっかりと受け止めて頂くこと、
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060816
それに加えて、

  • 成田圭一 『英語の綴りと発音』 (三恵社、2009年)

の密林カスタマーレビューをお読み下さるようお願いします。
http://www.amazon.co.jp/review/R2P3O5G444F5Y0/ref=cm_cr_pr_perm?ie=UTF8&ASIN=4883614999&linkCode=&nodeID=&tag=

今、「行き詰まり」といいましたが、その行き詰まった時でさえ、メディアに取り上げられるのは「成功事例」を導いた「強者」の方なのです。「小学校から『フォニックス』に取り組んだ生徒児童はこんなに英語力が高くなりました」というためには、「テスト」が必要になりますから、「4技能」を試すテストへの移行は大歓迎でしょうね。
中原氏は

  • 「大学入試が変わらなければ英語教育は変わらない」という事実です。

と言っているのですが、これは現職の「教育長」という公的な立場からすると問題ではないかとも思います。というのも、この発言での「」の中身が事実だとするならば、それを言い換えれば、

  • 「高校での英語教育は大学入試を受験するような生徒にしか実質的な意味を持たない」という事実です。

と言っているのに等しいからです。この部分をなぜ、誰も見て見ぬ振りをするのか、理解に苦しみます。中原氏の「論理」を当て嵌めれば、高校生のうち6割近くは既に「大学入試」として「英語という教科の試験」を受験する必要がなくなっていますから、裏を返せば、そのような生徒を抱えた教室では、大学入試の悪影響を受けないので、現時点で既に英語教育本来の趣旨・目的が達成できていなければならないことになります。しかしながら、現実はそうはなっていません。それだけではなく、そのような高校での英語教育を支えている人たちの声が、市民一般や有識者には届いていないのが現状です。この段階で既に、中原氏の現状分析・問題意識には偏りがあるでしょう。その偏りすら意図的なものなのでしょうけれど。
先程、「高校生のうち6割近く」といいましたが、これは「6割の高校」でもなければ、「6割の高校教室」でもなく、1つの学校の中、1つの教室の中でも様々、それぞれです。「教室の現実」を把握することの重要性を訴えられるのは、やはり現場の教師だと思いますので、現場教師の皆さんには、多勢に無勢だと思わず、声を上げ続けて欲しいと思います。
TOEFLをめぐる一連の騒動で改めて浮き彫りになったのは、「日本の英語教育」を語る言葉だけではなく、「構図」の紋切り型具合でした。ガラパゴス英語教育現場対グローバル人材、というような「ウチ・ソト」の構図を乱暴なくらい単純化して「ソト」を代表する人たちに現場を叩かせ、それに対して「ウチ」の中から、絵になりそうな人の声を反論として吸い上げる。最初から「物語の構図」が決まっていれば、そこで語られる「言葉」も紋切り型になろうというものです。本当に、「ウチ・ソト」での議論は深まり、問題解決に近づいているか、を検証する視点が欠けています。その際の視点は、過去ログでも指摘しましたが「素人目線」でも構わないのです。
今回の、『教職研修』9月号の特集では、「玄人」代表で、現役の文科省担当者二人の名前があります。
『初等教育…』とか、『中等教育…』というような雑誌に、文科省の担当者が寄稿するのは普通ですが、そうではない雑誌に名前と肩書きの付いた「声」が出るのは珍しいかな、と思いました。ただ、気を付けて欲しいのは、この二つの記事は、「寄稿」ではなく、「インタビュー」だということです。聞かれたことに対して、用意した答えを返すわけですから、そもそも「聞き手」の手腕に全てがかかっていて、記事の「色彩」は記者任せと言えます。常識的に考えれば、現職の文科省担当者の言葉は、普通「言質」になると思うのですが、これまで「英語教育に関わる文科政策の失敗または機能不全の責任」をとった人がいるのか、寡聞にして知りません。その後文科省内でポストが変わったり、大学へと天下りしたりしているような気がします。あくまでも印象です。ということで、ここでの「回答」をもとに責任論で迫ることは現実的ではないのでしょう。だったら、何のためのインタビューなのでしょうか?
議論をするなら、ただ「ビジョン」を謳うだけではなく、今、どこから見ているのか、「事実」「現状」を踏まえたものにすることが大事、というか必須です。
かつて、雑誌『英語青年』 (研究社) が大学入試問題を特集して、大学入試問題の問題点を論じたとき (2006年4月号) に、「英語教育界」での余りの反響の無さに少なからず驚いた私は、このブログでも「これは、本来なら、雑誌『英語教育』 (大修館書店) が組むべき特集ではないか?」という指摘をしました。
議論が突き抜けるためには仕掛け、切り口が必要です。突き抜けた先には、もう清々しい青空は待っていないかも知れません。それでも、突き抜けた穴からこれまで見えなかった「何か」を、一般の読者である英語教育関係者、さらにその後ろにいるはずの一般市民にも見せられるような議論を可能にしたいと思います。
対決ばかりを煽るのではなく、この『教職研修』と『英語教育』 (大修館書店) とのコラボでもして、誌上対談、誌上鼎談、誌上座談会というような企画はできないものでしょうか?このような想定読者の異なる雑誌のコラボにこそ、丸っと一続きで、「グローバル」な姿勢が現れていると思うのですけれど…。

本日の纏め、そして自らの戒め。

  • 教師は成功したと自惚れてもいい。ただし、その後、自分の足跡をこそ疑って振り返ること。
  • 生徒の輝くチャンスは、それぞれ、そのうち、それなり。教える側は、教わる者に対する「畏れ」を持ち続けること。

本日のBGM: Freedom Road (The Divine Comedy)