多勢に無勢?

tmrowing2013-08-31

次の一節をお読みいただきたい。

英語に関する「思い込み」は、別の形で現在も存在する。
「学校では文法ばかり教えるから英語を話せない」という思い込み。1989年公示の学習指導要領に、「外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てる」という一文が入り、コミュニケーションを目的に英語を教えることが明記されて以来、少なくとも公的には英語教育は文法訳読ではなく会話中心にシフトしている。現場でなかなか転換が進まない実情はあるものの、コミュニケーション志向の英語教育に変わってすでに20年経ち、2013年度からの高校英語教育では「英語の授業は基本的に英語で行う」ことが決まっている。それでもいまだに「日本の英語教育の問題は文法を教え過ぎることだ」と主張する人が多い。「今は文法ばかり教えているわけではありません。むしろ教えなくなった弊害が出て来ているくらいです」といくら説明しても、思い込みは揺るがない。

これは、鳥飼玖美子著『戦後史の中の英語と私』(みすず書房、2013年)の第10章からの抜粋。
学校英語教育に対するルサンチマンは、争点を正しく捉えるべき眼を曇らせることがある。
鳥飼はこの後、「大学入試」の変化にも言及し、

実際に近年の大学入試は大きく変化し多様化しており、指定校推薦、帰国生入試、アスリート入試、一芸入試、AO入試等々、英語の筆記試験を必要としない入試形態が増えており、「受験英語」を必要とする一般入試の割合は大幅に減少している。「センター試験があるじゃないですか」と反論する人がいるが、最近のセンター入試の英語を見て欲しい。どれだけコミュニケーション志向になっていることか。リスニング試験も導入され、筆記でも会話形式の問題が登場し、文法など影が薄い。
「大学入試が問題だ」という思い込みから、「大学入試にTOEFL/TOEICを使うべき」という主張を、一般社会だけではなく識者と称する人々が常套句のように繰り返し、そのお陰で文科省などの公的な提言にも登場し続けている。2011年に出された政府の「グローバル人材育成推進会議中間まとめ」でも、十年一日のごとく、TOEFL/TOEICの導入を提言している。これも「TOEFL/TOEICは世界標準で正確にコミュニケーション能力を測定する」という思い込みに基づいている。しかし、これは知識不足からくる幻想である。

という現状認識を提示している。
鳥飼氏が「十年一日」というのも無理はない、氏は10年も前に、

  • TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ (講談社現代新書、2002年)

で、「英語力」の捉え方(捉え直し)を提言していたのであるから。
最近では、

  • 『月刊 日本論壇』

のインタビュー記事で、「世界に通じる英語教育とは」という特集がなされていた(私が読んだのはkindle版)し、

  • 『英語教育、迫り来る破綻』(ひつじ書房、2013年)

の、「英語コミュニケーション能力は測れるか」(pp. 83-116)という で、この問題をかなり詳しく論じているので、是非ともお読みいただきたい。(この『英語教育、迫り来る破綻』は政権与党や財界の最近の動きに合わせ、その提言の妥当性を質す(糾す?)というような意味合いの緊急出版ということで、著者四者の主張が必ずしも連携がとれていたり、相互補完したりしているわけではなく、四者がそれぞれの主張を述べている、という「内容・構成」の部分での残念さと、タイトルの扇情的な語彙選択に残念さが残るものの、出版の意義は大きいと感じた。)
過日の『ニューズウィーク日本版』の特集記事、つい最近の『教職研修』9月号の特集記事では、単に「外部試験」の義務付けを推進するだけではなく、「英語教育」の根幹に対して、批判の矢が放たれている。中には明後日の方向を向いた矢もあり、その矢を放っている人が、英語教育関係者であったりするから話しは面倒極まりない。英語教室で四半世紀以上格闘してきた自分と相反する現状認識、意見・提言であっても、その真意を確認し、質すべきところは質していくしかないと思う。

  • 教育現場のことを知らない素人が口だしするな。

というのは容易い。しかしながら、読者でもある「英語を学ぶ人」のうち大多数が、教育に関しては素人のまま一生を終えるのである。その大多数の素人がなぜ、声が大きかったり、分かりやすい言葉を使う一部の素人の言うことには耳を傾け、教育の専門家の声には耳をふさいだり、批判・非難・糾弾したりするのか、そこにもうすこし考えを及ぼさないと。

さて、
前回のエントリーでも言及した「精読と多読」の補足。
私が初任校で「多読」実践に取り組んだのは1980年代の終わりから90年代にかけて。当時の米国でのSSR (Sustained Silent Reading) の取り組みに学ぼうと、Y先生が「なんちゃら推進校」などを引き受けることで予算を取り、カード型教材を米国から輸入した時に始まる (SRA Reading Laboratory のような製品だったと思う)。まさにY先生の慧眼である。それから四半世紀、自分の勤める学校で、また先進校での取り組みを、と様々な実践を正面や横目に見て、現在に至る。形態や規模こそ違えども、昔から各地、各校で「多読」は行われているのである。
人の褌を借りて相撲を取るなら、できるだけ信頼に足る人の褌、ということで、近江誠氏の言葉を拝借。

あなたは英語を沢山読んでいるだろうか。学校のリーダーとか講読本は当然であるが、それ以外に、単行本、雑誌、新聞等を読んでいるだろうか。
もし、あなたの表現力が、伸び悩んでいるとしたら、ひょっとしてそれは英語で書かれたものを余り読まないからかも知れない。英語クラブの学生や会話学校に通う人たちの中には、読むことは卒業したなどと思っている人がいるが、とんでもない思い違いで、そういう考えだと、いつまでたっても知的な論争ができたり、活字にしてもおかしくない文章が話せるようにはならない。(中略)ペーパー・バックスや英字新聞、雑誌はこれらに較べればはるかに安価だし、国内のいたるところで手に入る。従ってもっともっと読むことからのインプットを行うべきである。第一部でも述べたが、“生きた英語”というと音になった英語しか考えない傾向があるが、英語そのものに生きたも死んだもないのである。活字媒体で入ってくる英語とはいえ、本質的には音であり、語りであることはすでに何度も述べたとおりである。
さて、その読み方であるが、楽な気持ちで読めるものから始める。多少わからない言葉があっても、この読みに関する限り、あまり気にしないで読んでいく。もちろん、日本語に訳すことはしない。私は訳す作業そのものを否定しているわけではない。ただ、今は話したり書いたりできるようになるためのインプットにつながる読書の話をしているのである。それをいちいち訳していたら、せっかくの英語が身体に入る寸前に日本語にすりかわるわけだから、二十年やっても三十年やっても話したり買いたりにはつながっていかない。
一冊終わったら二冊目、とあせらずに読んでいく。すると先の多聴による無意識的吸収の場合と同じように、無意識下に英語が吸収されていく。そしてある日突然に英語で考えが浮かび、話してみると連なって出てくる。この感覚は、経験のない人にはちょっと説明しにくい。朝起きて葉を磨いている時とか食事をしている時とかの間隙を縫ってフトやってくる。パラパラと出てきてびっくりし、「あれ、私、今英語でしゃべった?」と周囲に聞く言葉自体が英語であったりする。キザっぽいが本当だからしょうがない。もう、それはなんというか、それと共にジワジワと体温が変化したような、あるいはヒヤッと血液型が変わったような気分になる。とにかく脱皮するのである。

さて自由で満ち足りた日々がしばらく続くうちに、慣れっこになり何とも思わなくなる。そして、まだ本当には自由ではないなと思う時が、これまたいやなことだが必ず来る。ここで諦めずに、また読み始めたり他のインプットなどを続けていく。すると、どこかの時点で急にふっきれたように再び言葉が出てくる。それも以前にもまして本物らしい感覚で出てくるようになる。
だいたい、言語表現力などというものは、やればやるだけ徐々についていくものではなさそうだ。それはごく初歩の段階だけのことである。学習は絶えず続けていても、なかなか結果としては現れないのが普通で、ここで多くの人は諦めてしまう。しかし、そこを辛抱すると、ある時に雲の間から太陽の光が差し込んでくる---どうもそういうものらしい。

『頭と心と体を使う英語の学び方』(「読書(多読)からの無意識的英語入力」、pp. 138-141、研究社出版、1988年)

今から25年前の出版である。
このところ、「精読と多読」について自分の視点と立脚点を確かめている。その契機となったのは、過去ログでも取り上げた、

  • 西村嘉太郎『ストーリーテリングのすすめ』 (三省堂)

の再読である。「今風」の読解指導では、「再話」と称されているのか “Story retelling” が注目を集めているが、「再」というからには、まず Storytelling がなければ始まらないと思うのである。ところが、こちらはどういうわけか、流行の多読・多聴の取り組みでは「読み聞かせ」の側面ばかりが強調されているように感じる。

冒頭の写真。
Breneman & Breneman は1983年が初版、A. Pellowskiは1987年が初版。Storytellingの概説書も、少なくとも30年から四半世紀前に、既に世に問われている「良書」があるのだから、もう少し、視野を広く持って「学んで」みればいいのに、というのが偽らざる実感。

あなたが語り手になるにせよ、読み聞かせ上手の手を借りるにせよ、ただただ優れた「物語」があることが前提です。

本日のBGM: Most People (Dawes)