ファーブルのファーストネームは

tmrowing2013-08-15

『英語教育』(大修館書店)9月号の特集を読む。
特集タイトルは、

  • 「質・量充実」時代のリーディング指導をどうする?

浅野博先生が読んで訝しがっている顔が思い浮かぶような、稚拙な題である。

  • 質の充実
  • 量の充実

は現在どちらも果たされていないのか?
それらはトレードオフの関係にあるのか?

  • それを求めている時代、とは具体的にどのような時代か?そもそも誰が求めているのか?
  • どうする?という時の「主体」は誰なのか?『英語教育』の読者で最も多いであろう、中高教員層に対するアピールか?

この特集では、例によって、色んな人に色んなことを書いてもらっている。執筆者を多くするのは、本当にいいことか?「後はwebで」とか「こちらの書籍で」としなくていいように、一人当たりの分量を増やすべきだろう。

特集は扉で簡単に状況の表面を掬っただけで、

  • 卯城祐司 「英語リーディングの質と量  生徒は本当に英語を読んでいるのか?」 (pp. 10-12)

という巻頭論文になっている。
「リーディングの質と量」の吟味がセンター試験の総語数と試験時間、という切り口に正直がっかりした。「質・量時代のリーディング」という時の質とは?英文素材の質?学習者の英文理解の質?ここが決まらないと、この後に続く論考も実践報告も価値が薄れるだろう。
学習指導要領が新しくなり、高校の新課程では表向き「リーディング」という科目が消えた。2013年度が始まって半年も経っていない今はまだ1年生のみが新課程生だが、来年度以降、 旧 (= 現在の2年次生以上が履修している) 指導要領との違いが際立ってくると思われる。
その今年度、特集としては初めて「リーディング」という技能に焦点を当てるものである。
新しいことを提案、啓蒙する前に、現状分析が先だろうと思う。中高新課程の各教科書の語彙水準やリーダビリティ、述べ語数、異なり語数、テクストタイプ、 ジャンルなど、質を左右する要素の何は重視し何は無視するのか、ということが、結局現場任せになってくるようでは、困るのである。
高校の教科書、中学校の教科書の分析、という点では、

という一個人のブログに遠く及んでいない。
この教科書分析などが、卯城論文の責任範囲ではないのであれば、ここだけでも、編集部が担当するなりして、巻頭論文の前、または全ての特集記事の後、に参照できる形であってしかるべきだろうと思う。それがなぜできないか?大修館書店もまた、教科書を出版している会社だからか?今はなき、『現代英語教育』は研究社から出ていたが、あの雑誌には、そういう遠慮や配慮があっただろうか?そんなことを思った。

卯城論文に関しての注文の前に、いくつか流れを整理。
高校段階でのリーディング指導に関しては拙ブログで何度も取り上げてきた。2008年以前のものは、こちらから検索を。 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080823)

「読解の質」に関しての私からの問いかけはこちらの過去ログ。 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110304)
そもそも、この過去ログで取り上げている種々の英文を「読める」とはどういうことか、を考えて欲しい。「スキル」を云々する前に、「いったい、どのような言葉を読ませているのか?」という問いでもある。

で、本題に戻って、特集タイトルの「質・量時代」という切り口。「時代」の名を借りて、これまでのリーディング指導が積み残してきた、先送りしてきた「宿題」をチャラにはできないと思う。
その意味で、卯城論文の掉尾、「鳥瞰」の比喩は甚だ疑問である。

授業においても、空高く飛ぶ鳥が下界全体を俯瞰するように、英文全体と対峙し、その内容を心に描くような、そんなリーディング指導が今求められています。 (p.12)

誰が求めているのか?はここでは置いておくが、中高段階の生徒に求められる「鳥瞰」とは?
「質」の点でも使い物にならず、「量」の点でも使い物にならないのが「旧態然としたリーディング指導」だとするなら、それに取って代わる、または改善を図る「読み」がいったいどんなものであり得るのかを具体的に議論するべきだろう。
「下界全体を俯瞰する」ために、どのように「高みに登れる」のか、どのように「鳥のように空高く飛べる」のか?
ドラえもんのタケコプターに頼るのか?
冗談はおいておいて、そもそも高さが足りない学習者の視点を高くするには「誰か、何かの補助」を借りて、見せてあげることになるだろうし、広すぎる、大きすぎる対象の全体を見せるには、「縮約」するしかないだろう。
例えば、

  • 読みにおける理解を補助、促進する「図解」について

また

  • 「要約」というとき、そもそも、日本語話者の考える「要約」とは、どのようなものなのか、について

考えておくことは重要だろうと思う。
visual organizersなどを「活用」した「構造化」「階層化」というのは、「鳥の目」で完成図を描ける人からの提示は容易だが、「虫の目」で足場を確かめ確かめ安心できる居場所を拡げている学習者には難しいもの。
また、「要約」については、そこでの頭の働かせ方がほとんどブラックボックスのような、「指導法」が横行していて、そもそも「要約」とは?という部分は随分と心許ないという印象を持っている。
私自身、現在のところ、前者では、

  • 鈴木明夫 『図を用いた教育方法に関する心理学的研究  外国語の文章理解における探索的効率性』 (開拓社、2009年)

後者では、

  • 佐久間まゆみ編 『要約文の表現類型  日本語教育と国語教育のために』 (ひつじ書房、1994年)

を読んで勉強中である。
(冒頭の写真のファイルはこちら 写真 2013-08-15 17 39 39.jpg 直)

この卯城論文が、後に続く特集記事全体を俯瞰し、それら全体と対峙しているか、是非とも6年前の同誌2007年9月号の卯城論文と併せて読んで欲しい。(過去ログではこちらで取り上げている http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070812)


後に続く特集記事を読んでいて、気になって仕方がないのが、

  • 田中武夫 「発問を活用してリーディング指導を英語で行う」(pp. 16-18)

ここで書かれている「発問を活用した英語の授業」を中高の英語教師は本当に真面目に真似してしまうのではないかと心配になった。ここで示されている発問で「本当に本文は読めたのか?」をこそ問うべきだろう。
「発問」に関しては、私も過去ログで何回か詳しく取り上げている。比較的新しい記事 (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20120614) あたりから、リンクを辿って欲しい。お急ぎの方は、
(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20091017) だけでも、是非。

田中論文の掉尾で、授業展開が計画しやすくなる、英語を使った授業が進めやすくなる、という、「発問活用」の利点が述べられているが、それらはあくまでも「副次的要素」に過ぎない。

写真や動画などを「活用」し、内容スキーマを「活性化」し、「情意フィルターを下げ」、「発問」により読むべき情報を教師が選択したことで、生徒の読む意欲が高まったとしても、「本文自体」は何も変わってはいない。「酷い」と思えば思うほど、本文が易しくなるということはないのだから。
「推測発問」は結構だが、この教科書本文で、肝心の "the law" の中身、彼女が何にどう違反したのか?を問わずに、「逮捕」だけを取り上げて理不尽さを感じさせるというのが「?」。
引用もとの教科書にはthe law とはどのようなものか、時代背景を説明する記述がこれ以前になされているのだろうか?もうひとつ、a black woman = Rosa Parks と直ぐにわかるのはなぜ?これ以前にRosaの説明があるのだろうか?もしそうであるなら、なぜこの段落の冒頭で a black womanと不定冠詞で始めたのか?
肝心の本文はこうなっている。 (三省堂 New Crown 3, Lesson 6 とのこと)

One afternoon in 1955, a black woman in Alabama was going home from work. She took a seat on the bus. Midway through the trip, the driver said, “Give up your seat to this white man.” When she refused, the driver called the police. “Arrest the woman sitting there. She is breaking the law.” The police arrested her. From this small act by Rosa Parks, a huge movement started.

このRosa Parksの伝記は、教材として広く取り上げられている、他の教材での記述を見てみよう。

In those days many white people discriminated against black people. For example, ‘Whites Only’ signs were common in the South. Also there were seats in buses which black people could not sit in.

One day Rosa Parks, a black woman, got on a bus and took a seat. Soon the white section filled up. The bus driver shouted, “Move to the back, or I’ll call the police!” Mrs Parks did not rise from her seat. The police came and arrested her.

これは、三省堂、New Crown English Series New Edition 3のLesson 6 “I have a dream” というキング牧師の伝記からとられたもの。出版社も、学年配当も、レッスン番号も同じ。違いは何か?
こちらの英文は、20世紀の検定教科書からとられたものである、という点。つまり、二昔ほど前の検定教科書の英語である。
文と文の繋がり、全体の流れ、纏まり、どれをとっても、この「時代遅れの」教科書の英語の方が良いように思えるのは私だけだろうか?
情報構造の原則からいって、田中が引用した教科書本文のように、「ある1人の黒人女性」→「彼女」という受け継ぎは可能であり、妥当だろうが、そこからそのまま何の説明もなしに、「彼女」→「ローザ・パークス」という受け継ぎには問題があるだろう。「彼女こそ、市民権運動になくてはならない存在の、ローザ・パークスだったのです」などとでもいう「種明かし」が必要であろう。
「二昔前」の教科書では、

  • One day Rosa Parks, a black woman, got on a bus and took a seat.

のように、固有名詞を先に出し、直後に「説明」をしている。「説明」は、この逆の流れでも可能である。
A First Dictionary of Cultural Literacy の初版が偶々家にあったので、それを見てみると、

The civil rights movement first won wide attention when a black woman from Alabama, Rosa Parks, refused to give up her seat on a bus to a white person. In sympathy, many other black people refused to use the busses until they could sit where they liked. (p. 102)

という記述があった。ここでは、

  • a black woman from Alabama, Rosa Parks, refused to give up her seat

と、不定冠詞で始めて、その名詞を、直後に固有名詞で受けている。
どちらにしても、自然な意味のつながりを生んでいることに変わりはない。
また、 “the law” の問題にしても、「二昔前」の英文では、最初の段落で、状況説明がされているので、ことさら「法律違反」と騒ぎ立てるのではなく、「警察を呼ぶぞ」という脅しに続いて、「警察が彼女を逮捕する」という事実の記述の迫力につながっている。ちなみに、the police は集合名詞であるから、「数」の処理は状況に応じて行うべきであり、即a policeman ということにはならないので注意が必要である。
MEDでは、

the people who work for an organization, connected with a local or state government, that tries to catch criminals and checks that people obey the law

と定義自体が定冠詞つきのpeopleとなっている。
Merriam-Webster’s Essential Learner’s では、pluralとラベルを付けた上で、

the people or the department of people who enforce laws, investigate crimes, and make arrests

としている。当然、police officer = a member of the police である。

結局の所、スカスカで、貧弱で、味気ない英文をもとにして、どんな「発問」を凝らそうと、ご利益は少ないのではないかと思うのである。まずは、発問を凝らして拵えてまで、「読むに値する英文」を教材とすることからではないだろうか。
新課程の教材全てに目を通したわけではないが、一事が万事、ではないことを願っている。

巻頭の卯城論文の副題、「本当に読んでいるか?」という問いに関しては、同じ9月号の、真野泰氏のQB(pp.75ー77)と、特集記事とを照らし合わせて読むと、見えてくるものがあるのでは?
私が、QBで真野氏の回答を読むたびに感じるのは、「やっぱり英語が読める人は違うな」ということである。

その他の特集記事はまた日を改めて。

今日は終戦記念日。本来は敗戦記念日。

  • 『われわれの小田実』 (藤原書店、2013年)

を読んで、小田実に思いを馳せていた。

小田は市民を、「ただの人」といい、「生きつづけるもの」ともいう。「生きつづけるものとは、ウンザリするような日常の生を、しかしなおそれを自分の生として生きていこうとするもののことである。小田はこの「生きつづけるもの」の同調者として、あるいはその一人として生きようとした。生きようとするそのことが、その生の場をたえず逃げることの許されない現場にしていったのである。

(子安宣邦、「小田は其処にいつづけた」、p. 50)

私が小田と知り合った最初から、彼とは個人的に共有する基本的な信念がある。その一つは、問題を解決するには、政府、大政党、労働組合、教会、その他どんなものであれ、大きな組織に期待するな、頼るな、だった。例えば、戦争と平和の問題はいつでもどこでもある問題で、色々なかたちで隠蔽・偽装されている。しかし、本質的にはあなたと私の問題だ。平和の出発点はあなたと私にある。

(オイゲン・アイヒホルン 「…かわらぬ愛と尊敬をこめて」、p.97)

小田さんは歩く、歩く。それも歩く速度が速い。北京、ベルリン、ニューヨーク。小田さん一家が暮らしている町に私は出かけた。どの町でも一緒に、ひたすら、えんえんと歩いた。それも夜中まで。それも何日間も。小田さんのいう「虫瞰」の実践。地べたを歩いて考えろ。

(辻元清美 「お前はアホや、勉強せえ」、p.187)

本日のBGM: 非実力派宣言 (森高千里)