Am I a dinosaur?

怒濤の週末。
本業での自らの立ち位置を振り返る機会。
どうなりますやら。
YouTubeで「選抜総選挙スピーチ」なるものがトップ頁に出ていて、びっくり。これが「スピーチ」の代表例、典型例になっていくのでしょうか?
昨年は岐阜国体と重なったためにドタキャンしてしまい、迷惑を掛けましたが、今年は、県内の中学生のスピーチを聴く (見る?) 機会があるようなので今から楽しみです。
私自身、大学は外国語大学に在籍していたし、英語に重点を置くカリキュラムの高校で教えていたこともあるので、「スピーチコンテスト」との接点は多い方だと思っていますが、英語による「演説」や「弁論」の文化をもっと根本的に捉えなおしたいという想いが常にあります。
中学生による英語スピーチの最高峰は「高円宮杯」だと言われているのでしょう。

で過去のスピーチ原稿が読めます。
「入賞者」のスピーチ、つまりは「高い評価を得た」スピーチを読んでいて気になることが幾つかあるのです。

  • 「スピーチコンテスト」って、なぜ、皆が皆「意見を訴える」ような「お題」の設定をするのだろうか?
  • なぜ、いきなり「世界の文豪」とか「詩人」の作品の一節や、「偉人の名言」を引いたり、さらには「聖書」からの一節を引用するのだろうか?

意見の優劣を評価するなら、日本語でやればいいと思うのです。
自分で英語を書くのであれば、「名言」や「引用」に頼らず、自分の中から、自分の経験から出てきた意味・アイデアを、教師の助力などを得た上で、磨いて「英語」として通る表現にしてくれればそれでいいと思うのです。
「名言」に価値を見いだすのであれば、「レシテーション」とか「英語劇」の方が、まだ発展する可能性があると思うのです。
どなたか、

  • こういう表現は余りにも使い古され、陳腐だからダメ。

とか、

  • こういう引用は、大人が喜ぶだけで、中学生、高校生には全く実感が湧かないものだからダメ。

と「NGワード」などを設定した上で、「スピーチ」の指導をしている、中学校、高校の先生はいらっしゃいますか?情報交換したいと思いますので、宜しくお願い致します。

そんなこんなで、三省堂のサイトにある「リレーコラム」、「スピーチ」がテーマになっているシリーズを読み返しています。2年前くらいの記事になるでしょうか。

「スピーチ基礎体力増強のススメ」、で望月尚子先生が書いている「ディスカッション,ディベートいずれの活動もoutputの英語の正確さは問題にしない。それよりも,多角的に考察をし,自分の意見を持つことができるようになるのが目的である。」「スピーチの原稿では,英語の正確性よりも,文章やパラグラフ構成が,しっかりできているかどうかにポイントを絞って指導する。」という部分には、大いに異論があります。「多角的な考察」に基づく「自分の意見」を英語の「パラグラフ」というタテ糸と紡ぐには、「的確な英語表現」というヨコ糸が求められるものであり、その「的確さ」は語彙選択や統語・構文上の正確さに依存しているものではないのでしょうか?いくら、本人は「自分の意見」をしゃべった、書いたと思っていても、それが「英語になっていない」場合は、聞き手、読み手には「通じない」でしょう。
個々の文が文法的な誤りを含まないとしても、パラグラフ全体として見た場合に的確さ・適切さが必ずしも満たされるわけではない、ということに関しては、過日より『問題の多い問題集』に収録されている「実例」で指摘してきましたが、それでもなお「パラグラフ」や「ディスコース」を作るには、個々の表現や文に、「それなりの正しさ」が求められるものだと思います。
この辺りの議論が平行線を辿ってしまうのは、その「それなり」の部分が共有されていない、または共有しにくいということなのでしょう。
私自身は、fluencyはaccuracyと完全に対立する概念だとは思っていません。
(過去ログでは、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20111105)
計量化は難しいですが「流暢さ」と和訳されることの多い、fluencyは「語彙選択や語順など統語・構文上の一定の正確さ」に依存しているし、一定の繋がりと纏まりのある発話をもとに、聞き手・読み手は「不正確さ」を補い、意味・メッセージを理解しているのだと考えています。
fluency を単位時間当たりの発語数、というような指標で捉えることはあまり「教育的」ではないと考えています。それは、『問題の多い問題集』の実例で明らかでしょう。平均して1分間に130語程度のスピードで全ての発話が終わったとしても、その個々の文は繋がっていない以上、結局はそれは「流れていない」のですから。
より「的確な」表現が思いつき、口をつけば「淀み」は少なくなり、「意味」や「論理」も繋がり、流れるのだと思っています。生徒であれ、教師であれ、「言いたかったけれど、言えなかったことば」があるがために、代替表現を援用したり、その表現そのものを「回避」する、つまり、自分の言いたかったことを捨てて、今現在の自分で言える範囲のことに集中することになります。その判断に要する時間で、その発話・ライティングは「淀み」ます。つまりfluencyとしては「低く」なるわけです。それを裏返せば、「言いたかったけれど言えなかった表現」を確かめ、自分のものにすることで、「つながり」がスムーズになり「流れる」ことになり、その結果「纏まり」も捉えやすくなるとはいえないでしょうか?
私が、ライティングで与える「フィードバック」の基本はそこにあります。
errorの分類は、かつてFerrisが Treatment of Error (2002年) で書いていましたが、全てのerrorに対して占める割合が、

  • tense 10.9%
  • word choice 11.5%

に対して、

  • sentence structure 22.5%

となっていました。(同書、p.53)
私が、「ライティング」のシラバスを考える際の大きな拠り所となった、Lane & Lange の Writing Clearly (初版は1993年、現行の第3版は2012年) はESL現場での指導経験が昇華された優れたediting handbook、概説書だと思いますが、そこで “Global Error” として扱われている項目の1つが、”sentence structure” です。
Bitchener & Ferris (2012年) の

  • Written Corrective Feedback in Second Language Acquisition and Writing

は、Corrective Feedback (=CF) に関わる先行研究とこれまでの議論を手際よく纏めていると思います。少し、この二人とその「仲間」に都合の良い方向付けかな、と感じなくもないですが、様々なCFが学習者、student writersの発話・表現の向上のためになされていて、それによって一定の効果が得られる、という部分は共有できる知見だと思っています。

  • 正しさを求めると、学習者は萎縮し、表現しなくなる。
  • 英語ネイティブの英語をモデルとするのは、到達不可能な目標設定である。

ということを言う人も多いのですが、私は「英語母語話者のモデル」を唯一絶対視しているわけではありません。英語を身につけようとアクセスしていく時に、どこからか「英語」と感じられるようになる境界線のようなものはあるのだと思います。非英語母語話者の英語も様々です。「それで通じるならいい」と言う人がいることは理解しますが、私の接する多くの高校生の英語は「通じない」のです。
では、せめて、

  • 誤りを含んでいるし、英語ネイティブのような発話・表現ではないにもかかわらず「通じる」ためには、どんな要件を満たさなければならないのか?

「もどき」の段階が相当に長く続く学習者といえども、その「要件」は示していきたいと考えています。
高校上級学年での指導となると、「パラグラフライティング」とか「ディベート」「ディスカッション」などにとかく注目が集まるのですが、語数や文数、段落の見た目だけが整っているように見えて、文と文の繋がりでは全く理由付けになっていない「英語もどき」を垂れ流させるのは感心しません。
おしめやおむつが必要な段階では、2文、3文を適切に繋ぐ、もっと基礎的なトレーニングが必要なのだと思います。過去ログでは、

で指摘したことですが、「新課程」の「英語表現 II」の教科書を見て、危惧は募るばかりです。

その昔、私が高校生の頃ですから、1970年代の終わり頃だったでしょうか、比嘉正範氏が「通じビリティ」というようなことをおっしゃっていて、印象に残っただけでなく、それ以来、学習者として、教師として「英語として通じる要件」というものにはずっと拘りを持っています。実際の運用やシミュレーションで「場数を踏む」ことで、「通じる」ようになっていくことは確かだと思うのですが、その場合、場数を踏む前と後で、回数を重ねた結果、発話・表現の質的・量的に何が向上したのか、その部分が、もう少し見えてくるといいなぁ、とは思っています。
私自身のここ数年の実作としては、文を越えた「つながり」と「まとまり」を見通すこと、その一方で、文未満の単位としての、チャンク、コロケーションなどといわれる「意味をなす出来合いの句」を整備することに焦点を当てた指導をしています。

本日のBGM: 明るい未来を (ザ・コレクターズ)