教科書の「英語」を読んでいますか?

気がついたら、もう中間試験でした。
「問題」の多い教材を読んでいたからではないでしょうが、「作問天国」のワクワク感はどこへやら。
毎回、7種類のテストを作ることになります。毎年、6種類とか7種類なので、多いとか少ないとかといった感慨はありません。
ただ、新課程で、学校設定科目となった1年生の科目は作問でちょっと苦労しています。生徒も準備に忙しいことでしょう。こちらも、ベストを尽くすまでです。

2年生の「リーディング」が、本日終了。
通常は、出題者として巡視で担当クラスに行くわけですが、「リーディング」のコマでも、「要約文の聞き取り・書き取り」があるので、朗読のリハーサルを繰り返してから教室へ。2回繰り返しの中でも、安定したリズムで読めて安堵。試験監督の先生も、空所に何が入るのか、真剣に聞いていらっしゃいました。
今回は、前半が多肢選択の出題、しかも3択なので、

  • 入学以来、始めて「満点」を取るチャンスが訪れましたね。

と声を掛けて帰ってきました。本気で言っていたんですけどね…。

昼食を済ませ、午後からは、作問の続き。
2時過ぎで一段落したところで、家庭訪問の準備。今日は3軒訪問。
途中で、少し空き時間ができるので、一回学校へ引き返して珈琲を淹れて小休止、と思い準備室に戻ったところで、「営業」の方たちと遭遇。
そういう時期ですよね。
私の顔を見て、引きつった顔で挨拶をして帰っていく方もいれば、私と一緒に珈琲を飲んで話しをする方もいます。
今日は、『英語表現 II』の教科書をみて欲しい、ということで見本本を頂きました。
営業の方にお伝えしたのは、

こういうことを言うのもなんなんですが、以前は、編集部の中に、著者よりも英語のよく分かっている方がいたんじゃないかと思うんですよね。私の経験では、私の原稿に英語ネイティブのチェックが入る前に、他の著者からの修正が入ったりすることもありました。
最近は、教科書の英文の「パラグラフ」の、「繋がりと纏まり」が崩れていたりすることがままあります。周りの話しを聞くと、そういう教科書が実際に広く使われていたりする。「採択」の時期には、時間がないので仕方ないとしても、新年度で授業が始まっているわけですから、英文をちゃんと読めば普通は気づくと思うんですよ。でも、それが指摘されることは少ない。
まさかとは思うのですが、ひょっとして、英語のパラグラフの「繋がりと纏まり」が分かっていない先生が増えてきた、ということはないのでしょうか?

やはり、教科書の英語を、自分で「読む」のが、教材選定の基本中の基本だと思います。
サンプルがいくら綺麗に作ってあろうと、営業の方や、同行した編集部の方のプレゼンがいくら上手でも、実際の「教科書」の「英語」が英語になっているか?ということが満たされなければ意味がありません。「使い方」「教え方」以前に、やはり「製品」の質だと思うのです。

私が検定教科書の著者をしていたのは、もう10年も前のことなので、今はどうなっているのか詳しい方、教えてください。「教科書協会」に加盟している出版社は、「教科書宣伝行動基準」なるもので、お互いに申し合わせをしていますよね。

こちらからDL可能です。http://www.textbook.or.jp/activity/data/publicity.pdf 

おそらくは、新年度で、検定で合格した教科書も含め、見本本を送ったり持参したりして、次年度の採択に向けた活動をすると思うのですが、それが加熱しないように、行き過ぎや不正がないように、という目的があるのだと思います。では、この1学期の時期に、「教科書会社」の主催でセミナーや研究会を行い、採択に関与する可能性のある高校の先生を集めることは、この「行動基準」に抵触しないのでしょうか?そこでの「講師」に高校の先生を起用した場合はどうなのでしょうか?「教科書会社」は、教科書以外にもいろいろな教材を作っていますよね。副読本とか、問題集とか。それらの線引きって、結構微妙な気がするのですけれど…。もし抵触しないとして、そういう催しに、積極的に参加する高校の先生はどのくらい沢山いるのでしょうか?

私が、「山口県英語教育フォーラム」を開催して、昨年で既に5回を数えました。全て、「秋」に開催しています。

第1回のフォーラムのアンケートで印象的だったのは、

  • 講師の方々が書いていらっしゃる著書の割引販売があるのではないかと期待したが、それがなかったのが残念だった。

というものでした。私は、この言葉を読んで、残念に思いました。

  • お土産がもらえる、といった類の「集まり」ではないのに…。

それ以来、「このフォーラムでは絶対に、講師の著作の『物販』『販促』はしない。講演の内容に意味・意義を持たせよう」と決意してやってきました。(因みに、私の勤務する学校法人が協賛として、講師謝礼などを負担してくれていますが、学校案内とかパンフレットの類は会場に一切置いていません。これは「節度」の問題でもあると思っています。)

教科書・教材の話しに戻りましょう。
教科書・教材を「消費財」と捉えてしまうと、取り返しのつかないことになるように感じています。
私の教えている、進学クラスには英語の教材の「学級文庫」があります。
全て私が購入したものです。自分が学習者として使ってきたもの、教師になってから教材として使ってきたものの中には、既に絶版のものも多くあります。大げさではなく、半分くらいが絶版でしょうか?でも、私が実際に購入した現物がそこにある、ということは大きな意味を持ちます。

  • 自分のものを読んでいる安心感。
  • 自分のものを読ませている安心感。

です。「後ろめたさ」が微塵もありませんから。
生徒が自分の興味関心のある本を借りて読むだけではなく、実際の授業の中で、教材を開き、クラス全員に読んでもらうことも多いのです。これは極々少人数のクラスだからできることではありますが、全員で共有する価値のある項目や表現、英文をホワイトボードに書き出しています。

  • こういうことは、この本に書いてある。この説明は今でも通用するだけでなく、今時の参考書よりも、英語という言葉をよく表している優れたもの。でも、これは40年前の教材。で、絶版。
  • この英文の出典は、この教材。今風の教材の、例えばこの英文などよりは、格段に英語らしい表現。20年前に初版。その後、絶版。
  • この「お子ちゃまレベル」の英語と、こっちの「少し成長した」英語とを行ったり来たりすると、言葉の成熟とか発達段階が見えてくる。この英文では、「言いたかったけれど、言えなかったこと」が、こっちになると、「ああ、こう言えばいいのか!」「そうそう、これが言いたかったんだよ!」となる。ここに、越えるべきハードルがあるね。

などという授業が成立することになります。

  • 「意味」が分かったら、「ことば」を読め!

とこれまで繰り返してきた「基本中の基本」でもあります。
絶版となっている古い本でも、その教材や著者、出版社に対する「リスペクト」は増すばかりです。

家庭訪問を終え、途中で、晩酌用のお酒を購入して、自分の家庭へ。
夕餉の「和」に癒されました。深謝。

本日のBGM: When I get home (Bert Jansch)