誤用修め、あるいは「順応って何だ?」

tolerance of ambiguity などというコトバがある。翻訳すると「曖昧耐性」とでもなるのだろうが、英語教育でもよく聞かれる用語・概念のようである。
最近気になるのは、その「曖昧耐性」というコトバを、

  • 読解や聴解で、意味・内容の理解が不十分、不正確である時に、その自分の理解の不十分さ、不正確さを許容できる学習者としての資質

とでもいうような意味合いで使う人がいることである。いくら、SLAの知見に後押しされ、間違った自動化モデルから脱却しなければ、と躍起になっている人たちでも、

  • 曖昧な理解のままであっても、言語運用で目的が達せられたら、それでいいのだ。

というような乱暴なことをいう人もいないだろうと思うので、本来は、learner anxietyとかtypes of learningとか、大雑把に言えば、Ellisの『緑本』 (2008年) のPart 5 (pp. 639-723) でいうところの、”individual learner differences”で扱われているようなことがらに関して用いるのが適切な用語ではないかという気がしている。
手元の用語辞典

  • 『英語教育用語辞典』 (大修館書店、1999年)

では、「曖昧さ耐性/曖昧さ寛容度」という邦訳をあて、

自分のこれまでの価値観や知識体系と異なる考え方や主張などに出会った時に、それらに対して個人が示す寛容さの度合。複雑で曖昧な状況に冷静に対処できる人は曖昧さ耐性が強いとみなされる。第二言語/外国語学習は2つの言語体系と2つの文化、および価値観などが複雑に絡み合う曖昧さの極めて高い現象であるために、曖昧さ耐性の強い学習者は、第二言語学習のいくつかの側面において有利であると考えられている。(p. 309)

と説明してくれているのだが、この定義で、みんな本当に分かっているのだろうか?
最近の本で、この用語をkey issueと見なして、indexで取り上げたり、本論で詳述しているものはあるのだろうか?
ドリュネイ、潮田編 (2009年) の

  • Motivation, Language Identity and the L2 Self, Multilingual Matters

には、indexに該当するコトバは見つけられなかった。
「曖昧耐性」というのは、individual learner differencesとかL2 self (ought-toとかidealとかも含めて) などといった切り口で学習者の心理や態度について、または学習そのものにおいて学習者の内面でいったい何が作用しているのかといった、目に見えないものを考えようとか、語ろうという時には有効な概念かも知れないが、日々、高校現場、教室で教えている実感に照らした時に、その「複雑に絡み合う曖昧さ」の実態は、それこそ曖昧でよくわからない。
百歩譲って、「学んでいる教材の理解度の不十分さ・不正確さ」に関して、このtoleranceという言葉を適用することを許容するとしよう。だとしても、学ぶ者として、気になるのは、「自分の今現在の理解が曖昧なのだとしたら、その曖昧さが『良い曖昧さ』と『良くない曖昧さ』に分かれる境目は何か?『良くない曖昧さ』を自分が抱えていた場合に、それはどうすれば『良い曖昧さ』に近づくのか?グラデーションの軸を移動するような変化ではなく、質的に変化するのか?」ということである。
「『自分の中の曖昧さ』が、いつ、どのように、より鮮明な、正確な理解へと近づくのか」をどのように観察することが可能だろうか。

英検にしろ、センター試験にしろ、多肢選択の問題で、

1. 曖昧さを排した、きちんとした理解に基づく解答
2. 80%の理解、即ち、20%分の曖昧さを許容した解答
3. 60%の理解、即ち、40%分の曖昧さを許容した解答
4. 40%の理解、即ち、60%分の曖昧さを許容した解答
(以下略)

というような選択肢で設問を作ったりしないように思うのだけれど。それとも、設問が10題あったら、それぞれの設問は、理解の曖昧度によって項目分けされているのだろうか。例えば、同じ「40%の曖昧さを許容する」、といっても、全体を100としたときにどの40%なのかを、どう判断するのか?上半身・下半身、上肢・ 下肢、内臓・骨格などなど、「部分」を取り出すって、口で言うほど簡単じゃないように思うのです。

私がいつも目くじらを立てている事柄に、"selective attention" がある。

過去ログ「『英英の弱り目、和訳の効き目』再録」参照→ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20110210

「一字一句に均等に注意を払っているのではだめ、重要な情報を選択するのです」などといわれるものの、教師 (あるいは試験作成者) が「選択」してくれた「注意点」を探し当てる作業に習熟しても、いつになったら、「学習者自身が自分で選択」できるのかがよく分からない。それを考える と、「『そこは気にしなくていいんだよ』、と教師がtolerateしてくれるかどうかに優先順位がある」うちは、学ぶ側としては、安心してその「自分の中の曖昧さ」を許容していられないと思うんですよね。

過去ログでも、
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20090516
で引用した、文章中の語の認知の例は、英語教育関係者にもよく知られていると思う。「一文字一文字を読まなくとも、前後の文脈、意味の整合性を頼りに漠然と語を認識できる」のは確かだろう。それにしたところで、そもそも、"Cambridge University" を知らない者には、(?) Cmabrigde Uinervtisy は読みようがないのですよ。誤読をする、しないのレベルではなく、「読めない」のだから。

「曖昧耐性」が、個々の技能や活動、課題の達成に関して用いられる場合は、主としてリーディングとリスニングに関わるようなのだが、これは技能がスピーキングやライティングといった、表現系のものになっても当てはまる概念なのだろうか?その場合には、「曖昧さ」とは、表現に関して言及するのだろうか、それとも何らかのメンタルなプロセスを指すのだろうか?
私にはよく分からない。
もし、そのような説明が難しいのであれば、そもそも「曖昧耐性」という概念を、個々の技能に適用したり、ある言語材料の理解度に適用したりすること自体に無理があった、ということではないのだろうか?
ということで、今書いてきたような私の言語学習 (習得?) や指導の根本に関する理解は、学術的な物差しに照らし合わせて見た場合、どのくらいの曖昧さにあって、その曖昧さは許容される範囲にあるのだろうか?

さて、
年内の正業の実作も、今日の課外講座がラスト。
高2のクラスには、

  • 多読教材でこれまでに読んだものの再読
  • 主教材、副教材でこれまでに扱ったものの再読
  • 「表現ノート」のネタ集めと、素材文の精読

を指示して終了。
良いお年を。

先日のブログで写真とタイトルだけ紹介してあった、

  • 谷川俊太郎 『子どもたちの遺言』 (佼成出版社、2009年)

から、気になった一節を引く。

わたしはもうすぐ四歳です
赤ん坊のころ覚えていたことを
忘れそうです
赤ん坊のころ知らなかったことを
覚えたかわりに (「もう まだ?」)

自分が無限の青空に吸い取られて
からっぽになっていく
何かに誰かにしがみつきたいのだけれど
分からない  どこに手をかければいいのか
子どものころとは違うさびしさ
置いてけぼりの頼りなさ
でもかすかな楽しさもひそんでいる
これは新しい自分かも知れない (「もどかしい自分」)

お母さん ありがとう
私を生んでくれて
口に出すのは照れくさいから
一度っきりしか言わないけれど

でも誰だろう  何だろう
私に私をくれたのは?
限りない世界に向かって私は呟く
私  ありがとう  (「ありがとう」)

先日、講演会を聞いた、森は海の恋人の畠山重篤さんはこんなことを言っていたのを思い出す。

  • 世の中を変えるためには、詩人が必要だ。

本日のBGM: SKIP (TOMOVSKY)

2012年12月29日追記:
FBでのやりとりから考えたことを記しておきます。
確かに、M. E. Ehrman は、Ego boundaries and tolerance of ambiguity in second language learning (Affect in language learning, edited by Jane Arnold, Cambridge University Press, 1999年所収) の中で、TAを3段階で定義して、Intake, Tolerance Ambiguity Proper, Accommodationというように持論を述べています (pp. 74-76, What do we mean by ‘tolerance of ambiguity’?) が、ピアジェの心理学の概念を借りてきたりしています。その後、この論文はドリュネイを含め、言語教育や言語習得研究関連で多数引用されています。日本の研究者でも、そのような考察を踏まえて、独自の研究を載せている方たちがいるわけですが (例えば、http://ci.nii.ac.jp/naid/110008607622 )、「そもそも」のところが気になった訳です。TA と言いながら、それがもし「都合のいい曖昧さの解釈」であったならば、その後の議論も研究もないだろうという感じがしたからです。
私の場合は、気になった論文を読んでいるだけですので、第二言語学習者心理などが専門の方々の間で、何が共有された知見なのかを知りたいとも思います。この日のエントリーで私もドリュネイ・潮田 (2009年) に言及しましたが、その著者インデックスの名前には、Rod EllisもMichael LongもPeter Robinsonも出てきません。それぞれ分野の第一人者と称される方たちが、持論を展開するけれども、そこで言及、考察するのが、自分の論文、弟子筋、師匠筋の論文に偏っていたりするのでは何か、こう、釈然としないのですね。それは、日本の学会でも同じように感じたりしますけれど。

追記の最後も、上述の谷川俊太郎から引いておきます。

わたしは幸せです
でもわたしが幸せなだけでは
世界は良くならないと思うのです
違いますか?
(「幸せ」)