「教科書には書いてあるけど…」

巷ではクリスマス。
正業は、年内最後の冬季課外講座の週を迎えました。
今日の講座は高1。
教科書プリントの構成を、きちんと理解し、「セクションを行ったり来たりしながら、できるようになるまで」取り組むことの意義を説く。所詮、道場での稽古なのだから、異議があっても、まずは道場主から言われたことをやることです。

英I Lesson1_1.pdf 直

語の記憶・定着には「音」、私が学生時代に習った言葉でもっともらしく言えば “acoustic image” を掴まえることが肝要。その意味では、いくらCDを繰り返し耳で聞いたところで、表象として取り込める「フック」 (英語だとhook) とか表象を表象として支える「額」のようなものが、まず学び手の内側に準備できていないとダメだと思う。そのフックや額を用意したり、作ったりするのも授業の大事な役割であり、英語教師の一番の仕事。これまで誰もしなかった指導法や説明方法を開発することなどにさして意味はない。

発音と綴り字の原理原則も、「フォニクス (phonics)」で注目され、近畿エリアの某自治体などは小学校から取り入れると息巻いているけれど、文字を読めるようにする、綴り字を音に換える原理原則の学びやすさと比べた時に、聞いた音を文字に置き換えることは格段に難しいということを、もっと世間一般の方たちに理解してもらうことが必要。
「暗号解読表」のようなものをただもらって、公式を覚えるだけでは不十分。原理原則への気づき、理解は普段からの自分の「観察力」の裏付けがあってこそ、生きてくるもの。
何のために『短単』から始めたのか、なぜその次に『P単』へと進んだのか、易しい素材から始めて、分かるまでやることです。小賢しいギミックは要らないし、範囲を決めた小テストなど、本来必要ないのです。(過去ログの「清水かつぞー」先生のことばを参照→  http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20091214 )

普段の授業で繰り返し繰り返し言っている「目の前の適切に使われている英語を生き直す」という言葉も、「語句の仕込み」の段階からどのように関わってくるのかを私がデモンストレーション。でも、いくら良いお手本を見たところで、これまでの2学期間で各自が取り組んで来た、歩んできたその足跡の濃さの分でしか実感することはできませんから。
残りの時間で記号付けをひたすら。

  • 何のために記号を付けているのか?

文構造を掴むためというのはもちろんだけれど、前後のセクションとの繋がりを辿ることで、文章全体の纏まりを「視る」足場、櫓づくりのためです。記号化は分節化。文字としての英語を扱っているのだから、語として表記されている時点で、それは既に表音文字とも言える記号。その記号を、単なる羅列として読み進めるのではなく、スラッシュを引いてただ切り離すのでもなく、輪郭線を引き、分節に区切ることによって、分節と分節との繋がりと、分節の中、さらには文としての纏まりを「可視化」することが第一義。二義的には、記号化によって抽象化・一般化など、長く複雑な構造を持つ文を圧縮し、単純・簡略にすることが可能。その結果、処理のための負荷が軽減し、構造全体の軽量化が可能となり、保持に貢献する。というのが、まあ、「後出しじゃんけん」での説明になるのだろうね。
教科書プリントの裏面には、日本語のフレーズ訳が印刷されているので、そのフレーズ間の「→」の部分に、日本語で合いの手を入れながら、英語の頭の働かせ方にならって、直線的にゴールまで。
意味が確認できたら、日→英ができるかどうかに挑戦。限定詞・冠詞の使い分け、名詞の単数複数、動詞・助動詞の時制の正しい選択と、番付表の形合わせ、など「実地訓練」を経て、自分では何が出来て、何が出来ていないのかを振り返り、以前のセクションに立ち戻り、そして「ターゲット」を目指していたはずの、「現在地」に再度戻ってくることですね。
明日は高2です。
Acrosticをどうするか思案中。伝記的な文章で、「ついて作文」にばかり習熟してもねえ…。

今年の夏から、方々で「ナラティブ耐性」の話しをしてきました。高2、高3の授業で「ライティング」を科目として扱う際、テクストタイプごとの話形・定型がなかなか理解してもらえません。「誰に向かってどのような文章を何のために書くのか?」という「自分がこれから書く文章のイメージ」が希薄なのは、「それまでに自分が読んできた文章」の類型が偏っているから、または「読み手としての自分の立場」が「試験を受ける人」など極めて幅の狭いものであることに起因しているのではないか、という仮説を持っています。
「文章の実例」のイメージが希薄なのは、人生経験の少ない高校生だけでなく、とかく「教材化された英文」と濃密な時間を過ごしがちな英語教師にも当てはまるように感じています。

さあ、一日の仕事を終え、これから夕餉です。
この一週間で手に取った、目にした「文章」「雑誌」「書籍」の写真を紹介しておきます。追々、ブログで取り上げるものもあることでしょう。そう考えると、二重の意味で「書くために読」んでいるのですね。
このうち、

  • 中沢啓治『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社、2012年)

は、まだ全部を読み終えないうちに、悲しいお別れとなってしまいました。合掌。

上段左:谷川俊太郎・詩 田淵章三・写真『子どもたちの遺言』(佼成出版社、2009年)
上段右: 下川浩『コトバの力・伝え会いの力』(えむ出版企画、2009年)
下段左:田尻英三・大津由紀雄編『言語政策を問う!』(ひつじ書房、2010年)
下段中: 松浦弥太郎『暮しの手帖日記』(暮しの手帖社、2012年)
下段右: 内田樹『街場の文体論』(ミシマ社、2012年)

左: 姫野昌子監修、山口久代、竹沢美樹、崔 美貴著『コロケーションが身につく日本語表現練習帳』(研究社、2012年)
右: 『飛ぶ教室 第31号』(2012年秋号、光村図書、2012年)

本日の晩酌: 早瀬浦・特別純米・絞りたて生・五百万石55%精米 (福井県)
本日のBGM: runway (小坂忠)