recognition revitalized

tmrowing2012-12-15

某所で呟いたり、FBで自分の仲間内で発していた言葉を反芻。
今週、生徒に話した時に板書したものの再現。単純に容積の比喩なので、限界はありますが、考える足がかりとして。

写真で、一番上が、受験対策 (センターであれ、志望大学であれ) で得られる試験対策力としての英語力の模式図。L= listening, R= reading, W= writing。Rの要求割合が異常なまでに高いが、土台が狭く、タワー型で、その「辺」を取っ払って中身を均してプールのような容器を満たす、と考えるならば、容積は実は物凄く小さい。
それを示したのが真ん中の図。
骨太モデルが一番下。受験の過去問対策で到達できるRの高みには及ばないけれども、LもWも受験対策で到達できるレベルはクリアーしていて、試験以外にも対応が可能となる。
私の授業で目指しているのは、この一番下のモデルに近いのです。

というような内容でした。

現場教師には現場で生きるものとしての矜持があるはずですから、それぞれが自分の信念を持って、授業、実作に励めばよいのだと思います。
ただ、お願いだから、同じ文法の問題集を何遍も解いて覚えることをインプットとかインテイクとか、もっともらしい用語で呼ばないで欲しいのです。お願いだから、答えの決まっている和文英訳の問題に答えることをアウトプットと言わないで下さい。
そういうのは十把一絡げで「仕込み」位でいいでしょうに。
そんな指導を繰り返し繰り返し、精度を高めた結果、受験で「実績」を上げられる生徒を擁する学校の「成果」を、今度は「英語教育」の「用語」で、後出しじゃんけん宜しく語ることによって「擁護」し始めたりすると、更におかしなことになります。
受験での成果を求めるなら求めるで、私は批判や非難などしません。
第二言語習得に照らして、もっともな指導法・教授法・学習法になっているかどうかを気にする良心的な中高現場の教師もいるでしょうが、そうでない人もまたチラ「ホラ」。今風の用語で虚飾を図るのはよした方がいい。「もどき」であることを自覚しているならいいのですけれど、困るのは、無理やり「理論ぶる」ことです。
つい最近、「曖昧耐性」が大事だという高校現場の先生の記事を目にしました。
FonFsという十把一絡げの括りにも多分に乱暴なところはあると思うのですが、日本の多くの高校で見られる言語材料の積み上げ式の一斉教授のシラバスにもかかわらず、個々の学習者の「曖昧耐性」が肝心などと言ったって、何の説得力もないと思うのです。
私はELEC協議会で育ちましたから、パタンプラクティス一つとってみたって、「オーラルアプローチ」が盛んだった頃の教師-生徒でのやりとりにも劣るような、お粗末な「置き換え練習」に何故今、逆行するのか、という思いもあります。少なくとも、日本の「英語教育界」がCLTへと動いていく中で、新潟大の米山先生らが説いていたように、「意味の選択は学習者に委ねる、free substitutionの形式でのパターンプラクティス」くらいまでは、80年代の前半の「英語教育」で足場を作っていたはずだと思うのです。個々の学習者の頭の中、心の中に浮かんだ意味を、何らかのゴールを達成するために他者とやりとりする中で、形式と意味との摺り合わせが、うまくいったり、間違えたり、また、以前は出来たと思っていたことが、セッティングが複雑になるとできなかったり、と「三歩進んで二歩下がる」ような状況が必然だからこそ、教室内外で 「英語をやる」ことが必要で、教師や、習熟度のより高い学習者による「介入的支援」が効果を発揮し、英語が「身につく」のだと思っています。


高1の授業ではこんな話もしました。

私が大学に入ったのは1982年。当時、師事していた教官の中には年齢が60に届こうかという方も多かった。私が18歳で相手は約60歳。ということは、その先生方が18歳の時って、1940年なんですよ。第二次大戦真っ只中ですよ。そんな時代に学んでいたのに、私から見ると「怪物」のような英語力を皆備えているわけです。「昔は使えない英語の学習方法だった」とか「従来の英語教育は役に立たない」とか、「10年英語を学んだのに、グッドモーニングしか言えない」なんて言っている人は、自分が「何を、どれだけ、どのように」やってきたのか冷静に評価し直した方がいい。CDでの音声教材が不可欠だとか、インターネットを利用すべしだとか、ICTの予算をだとか、コーパスの構築整備をだとか、第二言語習得理論に則った教授法だとかそんなことはお構いなく、1940年代でさえ、ちゃんと英語をやってた人はちゃんと英語力を身につけているんです。今のあなたたちの取り組みは、その遙か以前の江戸末期のジョン万次郎と比べても、工夫がないかも知れませんよ。自分の学びに責任を持ちましょう。

英語教育についてよく分かっていない「素人」の方たちのルサンチマンを越えて、限られた変数と環境の中で「成果」「実績」を挙げた人の勇ましい掛け声に乗っかるのでもなくて、地道に学ぼうという人たちに「なるほど」と思わせられない英語教育界ではダメでしょう。
たとえば、
鈴木忠夫『英語教育---素人と玄人』 (清水書院、1983年)
などの地に足のついた良書がもっと多くの英語教師に読まれることを望みます。
最近は、英語教育界そのものが、猪突猛進、でよくわからない「ゴール」を目指して旗を振っているようにも思えます。その流れの中で先鋭化でき、対応できる学校、教師、生徒はいいのでしょうが、そうでない人たちは、教える側も、教わる (学ぶ) 側も、「ルサンチマン」を抱えてしまい、その人たちの中から、「トンデモ本」に飛びついてしまう人が増えている、というような不安があります。杞憂であってほしいと願うばかりです。
高2の授業で、自動詞・他動詞の話をしていた矢先に、職場に届いた某ウイークリーの「語法」の連載で、またまたとんでもない「自動詞・他動詞の識別法」を目にしてげんなり。
私の友人知人には英語教育関係者も多いと思うのですが、月刊誌『英語教育』(大修館書店)などでは、まず、正面切って取り上げられないような指導法や教材が、市場で流通しているだけではなくて、多くの学習者が手にしている現状を、大学で「教科教育法」を教えている先生方とか、将来本当に中高現場の教師になろう、という学生・院生は把握しているのでしょうか?地道に学ぶのではなく、何か「最小の労力で最大の効率を」というメンタリティが、こういう過度に単純化した、ギミック満載の「トンデモ」指導法の入る隙間をどんどん広げているような気がしてなりません。

自動詞と他動詞との識別法をいくら日本語訳を駆使して考えていても、英語での自・他の棲み分けと共生の理屈、原理原則など掴めるものではありません。
例えば「反対する」という意味合いの表現で、なぜopposeは前置詞が不要で目的語を取り、objectは前置詞 toを伴って、目的語を取るか、というのは覚えるしかないわけです。私も、高校生への指導の工夫とか、使い方への助言で、

  • opposeはfightなどの仲間、objectはcomplainの仲間

と教えたりはします。けれども、そうしたところで、そもそもfightが他動詞で、complainが自動詞 だと知らない学習者には、あまりご利益はないわけですから、地道に、軸足を決めて、陣地を広げて、居場所を確保して、見通しを得る、というような学習を教室では目指しているわけです。

無駄話だけではなく、英語の授業もやっていますよ。
高2の実作では、レイチェル・カーソンのことばを簡略化した文章と、「…について」との両方を読む授業。品詞分解とか、構造解析とか、そんなことを目的に読んでいる訳ではないのですよ。
対訳と裏表でワークシート。音声CDをかけながら、音の切れ目と意味の繋がりの確認。次へと繋がるような音調での特徴を観察。それぞれの文が主題にどう貢献しているか、具体例の分析。キーワードでのプラスイメージ、マイナスイメージの把握、などなど。

スラスラ分かるところは速く。慣れてきたらさらに加速。でも、「むむっ」とか「あれっ」と自分で気づいたなら、徐行運転で。一時停止を無視して勝手に進んでしまったようなところとか、せっかく筆者が伏線を張って、地図を描いて手渡ししてくれているのに、自分の入りやすい、曲がりやすい道に行って、迷ってしまったようなところが、教師の出番。
表現の中で、harmonyという語が出てきたので、

このharmonyという一語が「効き目」を発揮することで、「何と何の調和なのか」という観点で、その前後でのAとBという内容をしっかりと掴むことが出来るのであって、そこまでを素早く読み飛ばして、キーワードだけを拾っているのではない。

という解説。『ワードパワー英英和』から始まる定義の検討へ。

  • a pleasing combination of musical notes

を確認。
続いて、“chorus” とはどう違うか?と問うて、「心地よい音楽的な音の結びつき」と「声の重なり」との差異を確認。さらに『グラセン和英』で、「不協和音」を引かせて、そこで得られた “discord” をさらに、英英辞典で確認。
harmonyの定義では、上述の "pleasing" や、

  • notes of music combined together in a pleasant way (LDOCE)
  • musical notes that are sung or played at the same time, making a pleasant sound (MED)

での“pleasant” のようなプラス評価の形容詞で定義がなされていることが確認できるのだから、その対義概念と考えられる“discord” では、「ちょっとpleasant とは言えないcombination of ちょっと音楽的とは言えないnotes」というような定義が想定できるはずであり、それを確かめるつもりで辞書に当たるべし、という話し。

  • an unpleasant sound made by a group of musical notes that do not go together well (LDOCE)
  • a strange sound in a piece of music, made by playing an unusual combination of notes at the same time (MED)

意味だけではなく、「ことば」をしっかりと咀嚼することが、今後の前進、飛躍には大切なのです。

「英語教育」関連で、もう一つ。
最近ではとかく「グローバル人材」との絡みで、その成果 (というか成果のあがらなさ加減) を取り沙汰されることが多いのですが、この「グローバル人材」って、どういう意味で使っているのかがよく分かりません。
自分の学校の生徒には、
「globalって、『まるっと世界をとらえた』『地球丸ごと』って感じの形容詞なんだから、日本とアメリカと欧州、とか中国と韓国と日本、とか個別の『国』を意識している点で、全然globalじゃなくなるよ。そうじゃなくて、『全部で一つ』っていう意識を持てるということは、『米国はUCバークリーで世界に通用する研究をする学者と日本の片田舎で自給自足をする人たち』というようにことさら対比するのではなく、『日本の地方都市で作った製品を全世界にネット販売するベンチャー』などと『世界への羽ばたき方』を無理やり演出するのでもなく、世界丸ごと、東西南北、都市村落、老若男女同じレベルで、『欠落した部分なく』、地続きで捉えられるということではないのですか?」
というようなことをよく言っています。
そもそも、「グローバル企業」といわれているような業種と会社のほとんどが、「日本以外のマーケットで、日本以外の企業・会社に対して、優位にcompetitiveな企業」であるに過ぎないように思います。全然、globalじゃないでしょ、それって。「他国・他者を相手に出し抜こう!」っていうだけじゃないですか。産業や商業、ビジネスモデルの比喩を、教育に当てはめても上手く行かないように思いますけどね…。

この週末は、妻が忘年会旅行で九州方面へ泊まりがけで出かけたので、娘とあんこと留守番です。
名古屋では、大津先生&斎藤先生の講演、東京では大井科研。盛会であることでしょう。
年明け1月12日の「中締め講義」では自らの役目をきちんと果たしたいと思いますので、今回はご容赦を。
最後は、「呟き」で流れてきた、名言を捩って。

  • 優秀な教師と有名な教師が一致しないケースが多いのが、教育の分野の悩ましいところです。

U先生、深謝。

本日のBGM: dejavu song (山田稔明)