celebration

高校2年生だけ、修学旅行の関係で期末試験がスタート。
作問祭りと採点天国が一緒にやってくる季節。当然、高1と高3は授業がまだ1週間続くので大童。
一昨日高2のテスト前最後の授業で扱った教材で、CaribbeanとEuropeanがそれぞれ純粋に形容詞で使われている文章があった (Europeanの方は、the Europeansでもでている) のだけれど、教科書会社が売っている音声CDの男性ナレーターはどちらも第一音節に第一強勢をおいて発音していて、ちょっと違和感があった。音声指導は難しいですね。COBUILD 系の辞書の強勢表記は、文脈によって強勢のシフトがあることを考慮して第一強勢、第二強勢と示さず、下線を引いてあるだけだけど、School Dictionary of American Englishだと、European Unionの場合は、第一音節に強勢があるような書き方ですね。European が名詞を修飾して用いられている時に、第一音節に強勢が移動する(戻る?)のは分かるのですが、the Europeans も第一音節を強く読んでいて違和感を覚えました。文脈に応じた自然な音声表現というものが先にあって、その原理原則を記述するのが辞書や概説書の役割なのでしょうけれど、地域差・個人差など、現場の一教員が対応するのは正直大変です。
さて、
少し前に、今は北米にいる田村さんから、『学習英文法を見直したい』 (研究社) の第7章で、Focus on Form に関する私の記述に対する疑義が投げかけられていたのですが、きちんと論じるには、時間が必要ですので、簡単に私のスタンスのようなものだけこちらで回答しておきます。
まず、「Focus on FormはFocus on Forms に対するアンチテーゼではなく、CLTでのFocus on meaningでは上手く行かなかった反省の元に出てきた」、という趣旨の疑義に対しては、それは出口しか見ていない一面的な見方だというのが私のスタンスです。では、なぜ、Focus on Formsに戻らなかったのか、結局は、それ以前の指導を十把一絡げで否定ないしは批判しているわけでしょう。にもかかわらず、「意味の交渉を通じて、ある目的を達成する中で『形式』にも焦点を当てたい」というのでは、「いいとこどり」を目指した「理念」とか「哲学」、もっと砕けた言いかたなら「信念」、曲解されれば「信仰」のようなものに映りませんか、ということです。ここは、Focus on Formを専門にしている方に、「お前の考えは間違っている」、「お前は何一つわかっちゃいない!」と徹底的に修正して欲しいとさえ思いますし、英語学習者としても、現場の一教員としても、よくわかる説明が欲しいところだったので、あのように書いています。
では、そのような「信仰」に方法論を与え、リサーチを積み、他の指導法・教授法に比して明らかに優れた「指導法」として、日本の書籍で紹介されている「授業案」を見ると、そこで焦点を当てられた「形式」というのは、たとえば「子音」とか「プロソディ」とかいった音声に関する抽象的なラベルを貼る「形式」ではないし、「修飾・被修飾」、「活用」とか「語形成」さらには「倒置」とかいった抽象的ではあるけれども、教師の目から見れば項目立てした際にラベルが貼れるような「形式」 (構成概念とか操作概念と言い換えることが可能なのかもしれませんが、それによって議論が深まったり、突破口が見えたりするとはあまり思えませんので、「形式」としておきます) とは異なり、やはり「目的を達する中で、経験せざるを得ない、ある特定の『形式』、例えば、現在分詞と過去分詞、というようなもの」になっているように感じられる訳です。私が『…見直したい』で提示した疑問の一番大きなものは、この次の段階で、

  • では、気づき損なったものをどのように再度見せて気づかせるのか?

という部分です。
Focus on Formでも、「明示的指導の効果は否定していない」という人がいるのは知っていますが、その際の「明示」の仕方は、Focus on Formsと十把一絡げにされた旧態然足る指導法での優れた教師や研究者によって継承されてきた「臨床の知」に依存していないのか、いや、ひょっとして彼らの手法に劣ってしまうのではないか?という「疑い」、「畏れ」のようなものが感じられないことが多いのです。
他人の言説に安易に乗っかるのは好きではありませんが、『…見直したい』の論考であれば、末岡先生の「副詞」に関する明示的な説明、とりわけ、p. 139で取り上げられている、「時の表現」での「前置詞の要不要」の捉え方などは、説明されることで「腑に落ちる」好例だと思います。
1991年にLongが書いた論文で既に、Focus on Formという用語は歩き始めていて、いろいろな議論が、いろいろなところで行われ、かれこれ20年の歴史を経て、今日に至るのでしょう。そんな流れを横目に見て、私としては、は1997年にRod Ellisが書いた、

  • SLA Research and Language Teaching (Oxford)

に戻って、自分の視座を揺すぶっています。
250頁ほどの本ですが、この中で、Ellisは「文法指導」での “options in grammar teaching” を具体的に吟味し、さらには、”structured syllabus” の利点・効用も検討しています。
私の主たる関心領域は、「ライティング指導におけるteacher feedback」ですから、自然と、

  • Figure 3.1: System of methodological options in grammar teaching (p.79)

に私の「意識」は向いていますし、「高揚」してもいると思うのですが、ここでの分類、カテゴリー分けが「腑に落ちる」ところまでまだ達してはいません。
Ellisを取り上げるなら、今では、学部生や院生が 2003年の、

  • Task-Based Language Learning and Teaching (Oxford )

さらには、2008年の、

  • The Study of Second Language Acquisition (Oxford)

などで学んでいる時代なのでしょうから、そこから見れば遙かに時代遅れのところで引っ掛かっています。先端の研究者の方たちは、どんどん進んで新境地を開拓し、新たな地平を我々に見せて欲しいと思う一方で、自分の歩みとしては、喩えて言えば、『実践英語教育法』 (1961年、大修館書店) で宮田幸一が、H.E. Palmerの言説に安易に依存するのではなく、自分のことばで捉え直すことに時間・労力をかけたことと同じようなことを目ざしたいと思っています。ということで、最近は過去ログでも触れた、

  • Michael Swan. 2012. Thinking about Language Teaching: Selected Articles 1982 - 2011, Oxford

を読み進めている次第です。

先週末から、左下の奥歯が痛み出し、鎮痛剤のお世話になったり、塗り薬のお世話になったり。
年齢的にもガタが来るころなのでしょうが、歯医者さんに行くのは子どもの頃から嫌いなんですよね。
ファンとして忘れてはならない日なので、帰宅途中で、kajiwaraに寄って、ケーキを購入。端から見たら「信仰」に映るでしょうか。
痛みに負けじと、今日も変わらず、食べて呑んで寝ます。

本日の晩酌: 磐城壽・しぼりたて生・本醸造規格・出羽燦々65%精米 (山形県)
本日のBGM: 時をかける少女 (原田知世)