『時の流れに』

朝から本業。
国体出場の地元選手の指導。
台風の影響が心配されましたが、雨にも風にも遮られることなく、時間を調整し他のクルーの練習を避け、2モーション完遂。この湖の地形に感謝。ホントにやりたいことがやりたいだけできる水域です。木曜日に1モーションだけ、1分オン/オフの指導をしましたが、今日は全メニュー、カタマランでベタ付けでの2モーション指導。私も今シーズン、自チームではこのような機会がありませんでしたから久々のスイッチオンで全開です。選手の消化吸収が速い分、身体への負荷も相当あるでしょうから、メンテナンスをしっかりと。蓄積した疲労を処理しにくい臀部のストレッチの種目をいくつか指導。筋肉が複雑に入り組んでいる部位ですから、いろいろな種目でしっかりと中までコンディショニングを。ハリや違和感の出てくる箇所が、かなり「良い場所」になってきたので、うまく身体が使えているのだと思います。背中、肩甲骨周りのコンディショニングは、ストレッチだけでなく、入浴やアイシングも併用して。
明日の朝モーションの頃の台風の影響はどうなりますか。

さて、
『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!企画第4回に参加します。基準日の10月1日から岐阜国体に向けて移動なので、一足先に。

ブログ主のanfieldroadさんからはこのような趣旨説明がありました。

今回は「英語教育」ということで、学生時代に読んでおきたい教育学や教科教育法などの分野でオススメの書籍や、教師となってから出会い強く影響を受けた本などをご紹介頂ければと思っています。 いろいろ考えたのですが、今回はあえて「一冊」に限定します。いわゆる「定番」を推してもいいですし、個人的に思い入れのあるマニアックな ものを選んでいただいてもOKです。洋書でも和書でも構いません。「一冊」となると、かなり迷われる方もいらっしゃるかと思いますが、そのセレクションに表れる個性も、読む側の楽しみになるかと思います。

私は大学はG大で、80年代に学びましたから、当然のようにW先生の影響を受けてというか、"浴びて" 英語教師になっています。「教わったように教えるな」という教えからも自由になることが最大の恩返しと信じて、ここは敢えて師匠の本は避け、「国語教育」と言われる分野から一冊の本を紹介します。
私は、かれこれ四半世紀、英語の作文やライティングの指導評価に主たる関心を持って取り組んできました。最近では、自分のことを「ライティングの教師」と呼ぶことさえあります。その姿勢は、まさに、この本に出会った影響と言えるでしょう。ただ、出会ったのは、私が教師になって10年が経ち、二校目に異動した頃ですから、1995年。自分の中ではかなり最近のことに感じられます。

  • 倉澤栄吉『新訂 作文の教師 指導法の手びき』(国土社、1987年)

この本は、実のところ、大修館書店の雑誌、『英語教育』の2007年8月号でも紹介しています。

  • 「夏休みブックガイド〜私の選んだベスト3〜」、

という企画で、原稿を寄せていました。拙稿は、pp. 12-13で、

  • You’re what you don’t read about.

というタイトルです。ほとんどの人が忘れている、覚えていない、というかハナから読んでいないと思いますので、そのまま再録します。(大修館さん、もし不具合がありましたらご連絡下さい。)

自己表現指導を始めたい方に

英語教師として約20年が過ぎたが、その大部分をライティング指導に費やしてきた。ライティング指導は難しい。これは衆目の一致するところだろう。英語教育の世界では「国語の授業で作文や論文について、具体的で系統立った指導がされていないので、生徒はライティングができない。まず日本語、国語での作文教育を!」というような声を時折耳にする。ただ、このような発言を聞くたびに私は違和感を覚える。英語教師は自分が児童・生徒・学生だった頃の直接体験以外に、どれほどの国語教育実践を知っているというのだろうか?最近ではPISAの結果を気にして、フィンランド式だ、ドイツ式だなどと「良さげ」な指導法を外国から取り込むことに躍起になっている印象を受けるが、国語教育という自らの足元を確かめることが先ではないのか。
私は迷いが生じると、この倉澤氏の本を読むことにしている。
「作文教育は人間形成に参加する唯一の特効薬だと信じこんでいる人は、いわゆる作文マニアと作文教育論者の一部だけである。すべての教師は各教科を担当して、その教科や教科外の学習を通じて考えさせ、感じさせ、見させ、はっと思わせ、後悔させ、真実にふれさせているのである。その人間形成のしかたは質的な差こそあれ、どの方法がもっとも程度の高い人間形成だとは言いきれないのである。」 (p. 30, 「作文教育と人間形成」)
この書で展開されている指導実践、その指導を裏打ちする教育観と比較した場合に、「自己表現」「アウトプット」などと形容される英語教育でのライティングはあまりにも「軽い」、そして「浅い」。地に足のついた指導法を求めるなら、教師の目で今一度、国語教育の成果から謙虚に学ぶ必要がある。私は文字指導、視写指導の見直しから始めたところです。

今、雑誌の拙稿を見ながら、「視写」よろしくキーボードに打ち込んでみたのですが、5年経っても、薄れるどころか、むしろ、思いは強くなっているかもしれません。雑誌では、引用など限られたスペースでの紹介でしたから、「第四章 作文の時間」から “skill” とか “task” に関して、私が普段使う「森」の比喩にも通ずる一節を引きます。

五 読解と作文
(1) 読むことは書くことである。書くことが読むことであると同時に、読むことは書くことである。しかしながら一点一画を読もうとしているときには、全体の意味は形象として浮かび上がってこない。同様に書くときにおいても、一字一語に気をつけているときは、全体の意味は浮かび上がってこない。もし意味を書こうとすれば当然全体の意味を読まなければならない。児童生徒は文を書きながら必ず読んでいる。すなわち一点一画に注意するのではなくて、単語や文節やときにはひとつのセンテンスに注意しながら次を書いていく。ひとつの単語や文節を書いたあとでちょっと休止をして、いま自分が書いた文字群を読み返し、即座にそれを意味化してその意味を頭に確認し、確認した意味からその次のことがらを連想したり思い出したりして、次の文を書き続けていく。したがって、確かな速い書き手は確かな速い読み手である。自分の書いたことばの群をすばやく読み取って意味化し、それを頭の中にしっかり位置づけて、そのことばの意味と結びつく他の概念を思い出し、その思い出されたいくつかの概念を整理して、必要なものをえり分け、決められた選ばれた概念をさらにことばにかえて、文章を書き進めていく。
したがって、作文の力を伸ばすためには、読みの力を伸ばさなければならない。 (中略) 書きながら読み、読みながら書くという仕事を大事にしていくことによってこそ、作文教育は書くことの教育であるといえるのであろう。(pp. 128-130)

英語教育の分野でも、高等学校の外国語・英語の新課程の学習指導要領は、「技能統合」を謳っているように映ります。しかしながら、学習指導要領の『解説』本を読んだところで、ここで倉澤氏が記しているような、「というのはどういうことか?」を突き詰めて、自分の中で反芻を経た、自前の考察を意味化したようなことばづかいにはほど遠いのです。「借りもの感」「とってつけた感」がありありです。
倉澤氏の本では、このような、具体的な指導が豊富に示されているだけでなく、指導にあたる心構えの「根底」というか「前提」の問い直しもなされています。そしてその鋭い切り口は、他の指導者だけではなく、自分にも向けられていることが窺えます。

作文教師を勤務評定すると、次の五つの段階に分けられる。
1 作文などに関心がなく、もっぱら文字の読み書きなどを事としている指導
2 文章に関心を持っているが、書かせたことがなく、もっぱら文章研究をさせている指導者
3 作文の必要さを認め、ときどき原稿用紙を与えて書かせているが、あまり見てやらない先生
4 作文をときどき書かせて、代表作などについて、推考の指導や生活指導をしてやる教師
5 作文を広く考え、ノートやメモなどを含めた実際の書く場面をとりあげて指導におよび、ときに全体の文章指導をしてやる教師

いうまでもなく、1と2は、作文教師としてはほんものではない。(中略)
4は、熱心な作文教師に多い。一般に3にくらべてぐっとすぐれた作文教師と思われている。この人たちは生活綴り方の選手であったり、コンクール入選作のベテラン指導者であったりする。子どもがこの人たちにかかると、文章はうまくなり、作文を中心にした人生論争が活発になる。この種の教師は多くの場合、作文の時間を特設する。そしてその特設時間の五分の四、ないし六分の五ぐらいを作文合評に使う。つまり、一時間書かせて、それをプリントしたり、読みあいさせたり話しあいさせたり、推考させたりするのに、残りの時間を使う。こうして、子どもの文章観は、教師の文章観をまね、子どもの人生観は教師のそれの模型になる。偉大な教師ならともかく、普通の人間の映像が、小さい子どもたちに移っていくことを思うと、いささかおそろしい。単に作文を書かせているだけで、見てもやらず返してもやらない人にくらべれば、数等上にはちがいないが、一面、子どもの表現活動を教師の考え方のわくの中へとじこめることは、どんなものであろう。子どもは書いているときには、それぞれ個性の中に遊び、自由に活動している。
ところが、でき上がった作品について、うって変わって、教師からわくづけされる。「書くことが少なくて理屈を言うことの多い作文教育」が、必ずしも成果をあげるとは言えない。文章をなおし、朱を入れ、学級集団で生活や社会を論じる型の作文指導は、案外、効果があがらないのではないか。(pp. 11-13)

ともすれば、英検やGTECのスコア、はては上級学校の進学先などの、「成果」や「実績」を持ち出して、自らの指導法に過度の普遍性を与えるかのように啓蒙活動、布教活動に精を出しがちな英語教育関係者に読ませてあげたいと思います。

この倉澤氏の本の旧版は新訂版を遡ること、さらに四半世紀の1959年に出ています。昭和という年号で言えば、昭和30年代にこれだけの水準で「作文」、「書くこと」の指導実践が行われていたわけです。にもかかわらず、それがなぜ今日の国語教育の世界で十分に発展継承されていないのか、ずっと疑問に思っていましたが、最近では、英語教育だけでなく、国語教育の世界でも、新しい理論や指導法の導入・輸入に一生懸命で、かつて先達、先哲の残してくれた豊かな実りを継承することに意味を見いだしていないからではないか、とさえ感じるようになっています。
私が高校生だった70年代終わりから80年代初めにかけての「英語教室」でも、きちんと指導していた教師、きちんと学んでいた生徒がいて、教室を離れたところでも、いまでも通用する「英語学習」「英語トレーニング」に励んでいた生徒はいたのです。ただ、それが普及しなかったのは何故か、それが今日まで受け継がれてこなかったのは何故か、時代のせいにするのではなく、「不易」をしっかりと掴み、懐古に耽らず、「当時でも上手く行った指導」の持つ今日的意味、意義を見いだし、指導に当たりたいと思っています。

2012/09/30 追記: 現在、出版元の国土社でも品切れ。アマゾンでは中古でも取扱いがありません。古書店、図書館等で是非とも手にとって、読んで欲しいと思います。


本日の晩酌: 黒牛・純米生詰・冷やおろし (和歌山県)
本日のBGM: Still crazy after all these years (斎藤誠)