第5回山口県英語教育フォーラム講演概要発表!

11月3日 (土) に開催される「第5回山口県英語教育フォーラム」の講師略歴と講演概要をお知らせします。
問い合わせ先、正式な申し込みなどの要項の発表は今しばらくお待ち下さい。

第5回山口県英語教育フォーラム
主催: 長州英語指導研究会
協賛: 学校法人鴻城義塾・山口県鴻城高等学校、株式会社ベネッセコーポレーション
日時: 2012年11月3日 (土・祝) 10:00 (受付9:30より) 〜18:00 (予定)
会場: 山口県労福協会館・大会議室 (〒753-0078 山口市緑町3-29)
※アクセスマップのpdfはこちら (http://www.welfareyg.jp/map.pdf)
テーマ: 「英語教育改革」、その前に…。

以下、講演順。

長沼 君主(ながぬま なおゆき) 先生

東京外国語大学大学院博士後期課程修了。博士(学術)。清泉女子大学英語英文学科専任講師を経て、2008年から東京外国語大学世界言語社会教育センター専任講師。福岡県立香住丘高等学校を始めとする多くのSELHi校にたずさわり、現在、同校SSH(Super Science High School)運営指導委員。2011年6月に文科省より出された『国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策』を受けて今年度立ちあがった『外国語教育における「CAN−DOリスト」の形での学習到達目標設定に関する検討会議』委員を務める。主要著書に『日本と諸外国の言語教育におけるCan-Do評価:ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)の適用』(朝日出版社)、『動機づけ研究の最前線』(北大路書房)、『L&Rデュアル英語トレーニング』(コスモピア)などがある。

講演概要: 「『Can-Doリストの使用』、その前に・・・。」

昨年度に出された『国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策』を受けて、各都道府県の教育委員会を中心とした拠点校が形成され、各学校で学習到達目標を「Can-Doリスト」の形で具体的に設定する試みが全国的に始まりました。ただし、Can-Doリストは使い方によっては薬とも毒ともなりえます。Can-DoリストがいつのまにかCannot-Doリストにならないために、または、Will-doリストで終わらないために、一歩立ち止まって、Can-Doリスト利用の意義についてフロアとともに考えられたらと思います。「できる感」を与えることで学習者を動機づけ、自律的学習者への育んでいく道具として、また、教員自身が、成長する教師として、教師自律性を高めていくために、Can-Doリストの持つ可能性を探っていきます。さらには、教師英語Can-Doについても触れ、教室での生徒とのやり取りの中でいかに英語を用いて、生徒の「できる感」を引き出していくかも考えていきたいと思います。

山岡憲史 (やまおかけんじ) 先生

神戸市外国語大学英米学科卒業。28年間滋賀県の高等学校の教員として教鞭を執る。2002年度〜2004年度文部科学省スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール (SELHi) 第一期指定校・滋賀県立米原高等学校研究主任。2005年3月「『英語が使える日本人』の育成のためのフォーラム2005」における模擬授業者。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会外国語部会委員 (2004年〜2009)。2005年7月「第54回読売教育賞」外国語教育部門最優秀賞受賞。2006年4月から立命館大学に教育開発推進機構教授。主な著書:『ジーニアス英和辞典 第2版』 (分担執筆 大修館書店)、『ニューセンチュリー和英辞典 初版・第2版』 (分担執筆 三省堂)、文部省検定教科書『Departure英語表現 I』 (分担執筆 大修館書店)、『オーラル・コミュニケーション ハンドブック』 (分担執筆 大修館書店)

講演概要: 「『英語の授業は英語で』、その前に・・・。」

来年度から実施される高等学校の新学習指導要領において、「英語の授業は英語で行うことを基本とする」ことが求められます。しかし、現場では、英語だけの授業で果たして生徒に理解を促すことが可能なのか、進学指導や学力差に対応することができるのかなどの点で、英語で授業をすることの効果を疑問視する声があります。また、教師自身の運用能力自体にも不安を持つ先生たちも多くおられることでしょう。講演者は、決して達意の英語を話す教師ではありませんが、SELHiの研究指定において「英語の授業は英語で行う」ことを実践し、その成果と問題点を見いだしてきました。本講演では、英語の授業を英語で行うことの目的は何なのか、このことが生徒の英語力伸長につながるのか、また、どのような場面で英語使用が効果的なのかなどについて、お話をしたいと思います。さらに、教師の使用する英語はどのようにあるべきかについても触れることができればと思っています。

奥住 桂(おくずみ けい) 先生

獨協大学外国語学部英語学科卒業後、埼玉県の公立中学校に勤務。2012年3月、埼玉大学大学院教育学研究科修了。授業で使用したハンドアウトや活動のアイディアなどをブログ「英語教育2.0」(http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad) にて紹介中。こだわりは「一斉授業で習熟度別学習・少人数指導」、「中学生からのライティング指導」など。編著に『成長する英語教師をめざして』(ひつじ書房)、一部執筆著書に『英語授業ハンドブック(中学校編)』(大修館)など。

講演概要: 「『自己表現』、その前に…。」

中学校の英語の授業で生徒に何かを話させる、言わせるとなると、「自分に関する事実」や「自分の考えや気持ち」をリアルに表現する「自己表現」と呼ばれるタスクが人気です。一般に、自分自身に関わることなので、生徒が「表現したい」という気持ちを高められると考えられているようです。学習指導要領でも「書くこと」の指導内容の例として「自分の考えや気持ちなどを書くこと」が挙げられていますので、中学校3年間で生徒が目指すべき「目標」の1つなのだとは思いますが、その力を身につけるための「手段」としても果たして有益と言えるのでしょうか? 今回は「自己表現」タスクの可能性と限界を見つめながら、中学校の英語の授業において「自己表現」させる前に取り組んでおくべきことについて考えてみたいと思います。

事務局を担当する私も、今から待ち遠しいです。
「Can-doっていろいろなところで耳にするけど、よく分からないんですよね」という素朴な疑問を持たれている方は勿論、「Can-do statementsが文科省から強要されてしまえば、自治体の学校評価教師評価に繋がる」、という批判、「学校ごとにバラバラなlistの作成で果たして『到達目標』として機能するのか」という批判など、流れに棹さすことを良しとしない方たちも参加していただけると、議論が深まるかなぁ、と思っています。
「教育困難校では、『授業は英語』で、では生徒を置き去りにすることに繋がる」、「扱う英語表現で内容の深みを求めれば、日本語を積極的に使うことはむしろ当然」という方だけでなく、「英語の授業は英語で」という当たり前のことで何を騒いでいるのだ、という強者も、「やっと自分のやりたいall in Englishの授業が出来る新課程を楽しみにしていたのに、なぜ『待った』をかけるようなことを?」というAAO派の方も是非、足を運んで下さい。
「インプット、インテイク、アウトプットという流れを確かなものにするには、『自己表現』が一番!」、「自己表現をさせずに、何を表現させるのか?」という方も、「クラスで30人、40人といる中で、生徒それぞれに自由な発話や作文をさせる、事前、事後の指導やフィードバックに自信がない」という方も、「高校段階だと、語彙も構文も論理も成熟してきた高3の最後で、受験演習という名の過去問指導になってしまって、より高いレベルの『自己表現』をさせるチャンスがないまま卒業させてしまっているなぁ…」という方も、積極的に質疑応答で意見を交わして欲しいと思っています。
まずは、11月3日のスケジュールを空けることから。
皆さん、奮ってご参加下さい。

さて、
夏のELEC研修会で、参加者にお貸しした書籍が返却され始めました。
せっかく、良いものが世に出たというのに、評価されることなく、絶版になってしまっている、ということが残念なのは勿論ですが、そういうものにきちんと目を通すことなく、さも、「自分がその道の開拓者」であるかのように雨後の筍宜しく量産するような教材作成者に対して「?」と思わざるを得ません。まして、その教材で示される英語がお粗末なものであるなら、尚更です。
ELECの研修会では例文集の扱いにも触れました。戦前戦後も含め、海外渡航が難しく、英語を掌に修めるほどに英語運用力に長けた著者が限られた時代の、職人芸のような「精選された例文」と、オンラインコーパスも含め、英語の実態がかなり明らかになっている「現代」に相応しい「基本例文」は、質的に異なるだろうという主張でした。その一方で、第二言語、外国語として日本語を学ぶ人たちが「基本例文」として扱っている「日本語の例文」は、日本で英語を学んでいる、英語を教えている者にとって、英語で何を表現するのか、英語で表現する時、どこからどこへと向かうのか、その視座を確かめるヒントを提供してくれるのでは?という問いかけもしています。
研修会では、「ナラティブの復権」「生徒にナラティブ耐性を」「教師がまず、良質のナラティブを自分のものにすることから」と、多様なナラティブの実例をお示ししました。とりわけ高校段階では、「読み」がデフォルトで設定されている教材が多く、そのテクストタイプも、説明文・論説文に偏りがちです。物語文というと「読むこと」に対して、苦手意識のある生徒用に語彙や構文を制限して書かれているので、クオリティが低く、読み応えがない、などと高校の先生方には思われているのではないか、という危惧があります。今回、しつこく「ナラティブ」素材を提供した背景には、この部分を揺すぶっておかないと、いつまで経っても「書くこと」とのギャップが埋まらないという、私自身の四半世紀に及ぶライティング実践で感じたジレンマを解消したいという想いがありました。
首都圏や近畿圏など大都市圏では、中学受験が現実の選択肢としてあります。私自身は東京で21年間教師生活を送る中で、6年間、私立校で教壇に立ち、自分の肌で感じたものを基準に、「お受験文化」「お受験マインド」などと時に揶揄することがありますが、中学受験では、塾の存在を抜きには語れない「学習」が求められています。英語の試験が課されることはありませんが、現代社会を生きる上での様々な知識が中学受験で問われています。時事問題など、理解し、記憶し、さらにはそれについて対比したり分析したりして「考え」「意見を述べる」、ということまで求められたりもします。ですから、「聡い子」たちは、いろんなことを「知っている」のです。
例えば、

  • 現代用語検定協会 『現代用語の基礎知識 学習版 2012→2013』 (自由国民社、2012年)

などを本当に覚えている小学生が受験をクリアーして中学に入学してくるとすれば、「内容スキーマ」や「母語でのテーマ語彙」は既に持っている訳ですから、中高で出会う「英語の」説明文や論説文の多くも、英語の語彙を覚えることでかなり容易に対応できます。私は、現任校では、この本を学級文庫に入れ、高校1年生、2年生に読ませています。全員に買わせることもあります。「難しそうな」用語には全てルビが振ってありますので、1ヵ月もあればかなり頭に入るだろうと思うのですが、それがなかなか…、というのが私のところだけではなく、多くの高校生の現状だと思うのです。池上彰さんが、TVで芸能人にニュースの解説をしているところを想像して見て下さい。英語の長文読解の前に、池上さんに来てもらえるような恵まれた高校はそんなにないでしょう。日本語で「知らないこと」をさらに、英語で読みながら、知識も英語も仕込み、「話形」を育てていくのは骨が折れますが、その「骨折り」作業が高校の英語教室の多くの実態でしょう。
内容が頭に入らない、残らない、記憶できない、という時、その原因の一端は、「話しが見えない」ことにあります。事実を説き起こす説明文であれ、主張が声高になされる論説文であれ、「読み手」は、自分の中に「物語」を作って、「物語に変換して」、自分の理解したことを記憶しているのです。書き言葉を手に入れる遙か以前から、人類は何故に、忘れてはいけないことを「歌」や「物語」に託して後世に伝えてきたのか、その伝統を今一度思い返すことが大切だと思います。
初めて足を踏み入れる森では、もどかしい、まどろっこしい、緩慢な歩みはむしろ「恵み」となるはずなのですから。

本日のBGM: I like (The Divine Comedy)