”But I know I’m goin’ far.”

ELECの研修を終えて1週間。
参加者のお便りから、一つを紹介。私のELEC協議会、同友会での発表を以前から厳しく見続けて下さっているお一人です。

膨大な資料をいただき、さらに貴重なご本を見せていただき、ご準備にかけていただいた時間に思いを巡らすと、まるで、先生は英語という「伝統工芸」の職人のようだと思いました。「明日から使える」ようなお手軽さとは無縁でしたが、私たちが指導上心得ておくべき道筋を、煌めく銀河のごとく見せていただけた気がします。心に響く言葉もたくさんいただき、勇気もいただきました(もちろん、課題もたくさんずっしりと)。
また、以前、英語発想実力診断テストを使わせていただいた時には、先生が100の英文に仕込まれた仕組みの緻密さに圧倒されました。さすがの職人技を惜しげもなく提供くださったことを、あらためて感謝します。

こちらこそ、感謝しております。今後とも宜しくお願い致します。

現任校の後期課外講座もスタート。
高2は、あえてタイトルを付けるとすれば「教科書の英文をきちんと読む」、というパッとしない数コマですが、講座の中味は「気づき」に溢れ、自分のことばができていく瞬間を感じることのできる優れものだと思います。ちょっと自画自賛というか、これは生徒がここまで育ってきたんですね。
新教材導入、オーラルインタラクション、鋭い発問による英問英答からサマリーやリプロダクションなどという教科書の進め方のイメージを持っている方には、ちょっと理解しにくいだろうと思いますが、語彙は『P単』で先行、文法はかなり独自のアプローチで、聞き取り書き取りはディクトグロスとイカソーメン、音読の徹底、内容理解を問う設問づくり、パラフレーズと要約、『コーパス口頭英作文』で短文の暗唱と意味順ノートづくり、定義文・説明文のライティングと、高2に求められる英語力を私なりに行きつ戻りつ、時々浮き輪を利用して浮力を上げてでも無理をして、それから、穏やかな水域で大量に泳いだりしてきました。
そんな中、7月の模試の結果が帰って来ましたが、2年生の英語は全科目私が教えているので、模試形式というか『問題集』での問題演習を全くやっていません。模試の後では、おかしな出題の指摘と訂正をして最後に、きちんとした英語を提示して終わるくらいで、解説もあまりしていません。
当然のごとく、発音アクセント問題とか、穴埋めの4択問題とかができません。「解法」を教える、どころか、そういった問題を年3回の模試でしか見せていませんから。
一方、会話表現、長文読解と表現問題は8割以上の出来。高1、高2は記述式でまだ良かったと思います。だって、ちゃんと読めるし、書けるから。今は、それでいいと言ってあります。
進学クラスとはいえ、入学時は全国偏差値で言うと50を少し越えた当たりの生徒が多いのですが、今回は65を越える生徒が続出し、進学主任も喜んでいました。「良い例」から二三人あげておきましょう。
高1の7月、11月、1月、高2の7月で計4回分です。

  • 52.2→58.9→57.7→67.3
  • 54.4→58.3→62.9→65.1
  • 56.0→55.3→57.7→65.1

入学時に、

  • 高1のうちは、中学校の復習を徹底するので、目に見えて成果は現れませんが、歯車が噛み合って来たら一気に加速しますから。

と保護者の方たちに言ったことが実証されたような結果でした。高1の2学期までは中学の復習で、高2の夏でまだ「英語I」の第9課をやっている位ですから。
問題は、ここまで「数値による伸び」が大きくない人たちにも、納得いくだけの英語力がついたぞ、と実感させること、ですね。
幸いなことに、国語と数学は一足先に、ぐんっと伸ばしてもらっているから、歯車が噛み合うまで、もう少し、問題演習無しで平常授業は進みますので、ご理解ご支援の程を。偏差値を伸ばすとか、上げることが目的ではなく、「英語力をつける」ことが目的ですから。

今週は、「ライティング指導」に関して、某県の県立某高校での教員ワークショップのための資料をまとめています。
今回は、お世話になった方から紹介があっての依頼ということなので、スケジュールをやりくりして実現の運びに。基本的に、自分が英語教師として育ててもらったELEC (同友会) を除けば、自分の学校の生徒と地元の英語教育の充実が優先ですから、今後今回と同様に特定の学校のためのワークショップをすることはないと思います。
というのも、去年か一昨年のことですが、朝、職場の電話に、いきなり広島県のどこかの市の指導主事という女性から電話があって、「ワークショップをやってくれないか」、と頼まれたことがあるのです。といっても、その人とはどこかの研究会で一緒だったとかではなく、何の面識もなく、電話でも手紙でもメールのやり取りもないのだから、引き受ける「理由」というか「大義」というか「義理」がないわけですね。自著の販促活動でこちらからお願いするんじゃないんですから。人はどうして、肩書きがつくと上から目線で何でもできると思ってしまうのでしょうね…。
済みません、話しが愚痴っぽくなりました。
今回引き受けたワークショップはELECの研修会とは違って、「概論」+「授業改革」という感じでしょうか。休憩を挟んで5時間と時間もたっぷり。しかも特定の高校の教員が対象と、やることがはっきりしているので、ワークショップも単に、「生徒になって体験」というレベルではなく、syllabus designer, materials writerといった視点で、具体的なディスカッションに繋げられることを望んでいます。

さて、
FB繋がりの方から、立命館大学での講演の話しを聞いて、訝しく思っていたところに、関東甲信越英語教育学会でのシンポジウムの話しが入ってきたものだから、「?」というよりは「!」という感じ。3つ付けてもいいくらい。

  • "Course of Study is the national standard of school curriculum. So if you cannot follow it, you should stop teaching at school."
  • 学習指導要領に従いたくないなら学校を去れ。

という、文部科学省教育課程調査官の向後秀明氏の発言の真偽を文科省に問い合わせておきました。

今、

  • 安井稔 『「そうだったのか」の言語学 生活空間の中の「ことば学」』 (開拓社、2010年)

を読み返していますが、「第11章」がまるまる「『英語による英語の授業』について」書かれています。 (pp. 210-225)
そっくり、コピーして送ってあげたいくらいですが、一部引用します。

「高校における英語の授業は英語を用いて行う」という提案がなされている。「どう思いますか」と問われるなら、「素人による素人のための提案」というしかない。確かに、耳ざわりはよい。反対すべき理由も特にはないように思われる。したがって、反論するにも一筋縄ではゆかないということになる。
以下、ここではいきなり賛成とか、いきなり反対とかいう立場はとらないことにする。その代わりどの立場をとるにせよ、見落としてはならない点をひとつずつみてゆくことにする。そういう手順を踏むことによって、真に問題とすべき点はどこにあるかということも、おのずから明らかになってくるであろうと考えられるからである。 (p. 210)

「英語による英語の授業」となれば、質問も当然英語で行われることになる。質問の質も低下をまぬかれないと思われる。
賢い答えを引き出すためには、賢い質問を必要とする。賢い質問には、かなり整った知識の体系を前提とする。Yes-No疑問文の場合であれば、文全体の値がプラスであるか、マイナスであるかだけを問うものである。Wh疑問文の場合であれば、疑問詞化された語以外の部分は既知情報でなければならない。質問というのは「ほんのちょっとだけ、分からない部分がある」というときにだけ有効なのである。やみくもに質問したって、賢答を引き出すことはできないのである。 (p. 214)

何人目かの指名でやっとうまくいったとする。が、その場合でもうまくゆかなかった生徒たちは置き去りになったままである。置き去りになった生徒たちはクラスメートの正解に接し、先生の質問を正しく理解し、その応答となるべき英語の表現を正しく口にすることができるようになったであろうか。必ずしもそうとばかりは限らないであろう。こういうやりとりによって、英語に関する知識が増大し、その運用能力が高まることを生徒の側に期待しても、それは無理というものであろう。 (p. 214)

新しい外国語を学ぶということは、新しい文化に接するということである。その際、自国で身につけた文化がすでにあるなら、それは有利な前提条件として、当然利用されているべきである。二つの文化が相似的であるなら、それだけ学習は容易となる。違いがある場合にも、理解は重層的となり、深みを増すことになるであろう。(中略) つまり、その国の文化を背負っている英語という言語を習得しようとする際、全く素手で立ち向かうよりは、自国の文化を背負っている日本語という言語をうしろ立てとして立ち向かうほうが得策であるというにすぎない。日本語を踏み台として用いるのである。
踏み台がしっかりしていなければ、その上に立つことはできない。その限りでいうなら、日本語とその文化とがしっかり身についていないなら、外国語の学習に際し、少なくとも有利に働くことはないということである。もっというなら、英語およびその文化を学ぼうとする際、いわば白紙に近い状態に身を置き、学習対象をただ仰ぎみるというのではなく、自国の文化という踏み台の上に立ち、等身大の目線で望むほうが、英語および英語文化の理解は効率がよくなるということである。 (p. 217)

アメリカへ行けば、説明も全部英語である。アメリカで問題なく行われていることが日本ではどうしてうまくゆかないのであろうか。答えは簡単である。英語力に差があるからである。
教師の英語力と生徒の英語力とが一定の水準に達しているなら、その英語を用いて何を説明しようと問題はないが、日本の高校の場合、先生の英語力にも生徒の英語力にも問題なしとしないのではないか。特に生徒の場合、前提とされる一定の水準の英語力というのはむしろ「英語による英語の授業」の到達目標と考えられているものではないか。もしそうであるなら「英語による英語の授業」に対する最大の障害は、授業開始時における英語力の不足であるということになるかもしれない。 (p. 219)

引用を終わります。
私の立場は首尾一貫して「押しつけるな」ということです。
私にとって、教室での最大の課題は、

教材としてターゲット、身につけるべき項目になっているAという英語表現を、それよりも易しいとされるBという英語表現にパラフレーズする前に、そのBという英語表現を、いったいいつどのように、しかも「全員に」英語は英語で身につけさせておくのか。そして、Aが出てくるたびに、それよりもやさしい (ある意味「優しい」) Bという表現に置き換えて、自分の意図を表明し、他者の意図を理解して意味の交渉をやり過ごした場合に、Bよりも難しい表現であった、Aというターゲットの英語表現自体は、その後の授業でいつ、どのように「全員が」使いこなせるようになるのか?

ということにあると実感していますので、それを具体的な例を挙げて説明してくれる指導主事や、調査官、視学官がいてくれたら、私も含め、多くの英語教員が「AAO」派へと動くのではないか、そして日本の英語教育ももっと良くなるのではないか、と本気で思う日暮れ時でありました。

指定券を取ったのはいいのだけれど、新幹線の乗り継ぎが面倒で乗り遅れないか心配…。
シャツと夏物のウールのパンツにアイロン掛けをして、ガーメントバックの準備は完了。
夕飯はパスタの模様。

本日のBGM: Where the universes are (Jimmy Webb)