東京から離れたところに住み始めて、5年…

今年度は、自治会の会長をすることになったので、夕べは各自治会の会長が集まる会へ出席して来ました。冒頭で「今日は1時間半くらいを予定しています。」ということばを耳にしたときには、「そんなにかかるの?」と驚いたのですが、終わってみれば開始から3時間弱かかっていました。
会場を出る前に、妻に電話して夕飯を温めてもらうことにして、帰宅。
いつもなら寝ている時間に夕食を済ませて、生酒とYouTubeで気分転換。
酵母と音楽に救われました。
今日は入学式。
なんとか天気が持ちました。
明日から本格的に授業スタートです。
教科書、副教材など教員用のものもようやく揃い、授業の準備も出来るようになりました。
このブログも、「授業開き」などという検索ワードでアクセスが増える時期ですが、私のやり方は真似しない方が良いと思います。最近ようやく、「こうしたらダメだ」というのは分かってきたように思いますが、反対に「こうすれば絶対に大丈夫」というのは正直、外れることの方が多いので。でも、石川県の「河豚の卵巣の糠漬け」料理のように、絶対にダメだと言われていることも、やりようによってはうまく行ったりすることもあるのが人の世です。
授業開きといえば、英語教育の世界だけなのかよくわかりませんが、

  • 年度初めに定期試験を全部作っておくのがプロのプロたる所以である。

などという話しを耳にすることがあります。皆さんはどうされているのでしょうか?
私はかれこれ26年そんなことをしたことがありません。定期試験をやらないシラバスで科目を設定したことならありますけれど。
だって、そもそもどんな生徒が自分のクラスにいるのか分かっていないんですから。
しかも、新規採用の教材や、改訂版の教材なら尚更です。
私の場合、基本的に小テストもやりませんから、授業をするなかで、個々の生徒の出来不出来、得手不得手を見ながら、達成度を考え直して定期試験を作るだけです。
ミュージシャンがコンサートをする前には、曲目を決め、曲順を決め、演出し、リハーサルを重ね、予め作り上げてから幕を上げるでしょう。でも、英語のテストって「生徒のパフォーマンス」を測るものではあっても、「教師のパフォーマンス」ではありませんから。授業自体も「ライブ」な要素が多分にありますけれど、ライブ演奏でお客さんを楽しませる「エンターテインメント」とも違いますからね。これでもか、というくらい隙のない教材研究をして、活動や練習のバラエティも用意しておいて、範読や板書もリハを重ねて。で、教室でのやりとりを踏まえて、行きつ戻りつ。用意してきたものを先送りしたり、古い引き出しからあわてて取り出したり、惜しげもなく捨てたり、生徒の間違いを拾って修繕し甦らせたり、はたまた、生徒の方から教えてもらったり。
授業ってそういうものだと最近よく思います。
何を身につけさせるのか、よりも「統一進度」で横並びが気になる人と授業を組んだり、クラスの平均点の上下を教員評価と勘違いしたりする学校文化にいるようだと、なかなか思い切ったことができないのは悩ましいでしょう。
誰かの後追いで結局は劣化コピーになってしまったり、情報に踊らされたり、煽られたりするのではなく、自前で地道にやれればどんなに良いことか、と思います。私の場合は「そう思うんだったらやればいいのに」という単純明快な論理で生きることを自ら選択して今に至るわけです。
私は、こうしてブログを書いて8年目になります。最初の3年は、東京勤務時代。そして、最近の5年は山口に来てからのものですが、共通しているのは自分の授業の記録を残すことです。その時、そこにいた自分はこうしていた、その時、そこにいた生徒はこうしていたという程度の記録です。でもそのような「記録を残すこと」は、研究紀要を書いたりとか、研究授業や公開授業を行ったりとかということとイコールではありません。あらたなチャレンジをしたり、躊躇したり、出来ないことが出来るようになって喜んだり、出来るはずのことが出来なくて凹んだり、生徒のおかげで得た成功に慢心したり、高を括って失敗したり、研究授業や研究発表などしなくても、積み重ね、続けては振り返り、練り直す。そして今立つ場所、今見ているもの、がはっきりしてくる。それだけで充分自分にとっての価値はあるのです。

  • 誰かの足跡を追いかけるのではなく、自分の歩みを残してみる。一緒に歩んでいる人 (生徒や同僚) の足跡をこそ残す。

もし、検索してまでこの過去ログを読んで、何かを取り入れようとする人がいるのであれば、一番嬉しいのは、そうしてくれることです。
本日のBGM: Edo River (直江政弘 & 平泉光司)