唖然

春期課外二日目終了。

本日分のハンドアウトはこちら。
2012kagai_0323.pdf 直

単文の用例は、水光雅則先生の『ランドマーク高校総合英語』 (啓林館、1994年、絶版) とMichael SwanのBasic English Usage (Oxford、1984年、絶版) から補充した。この2冊はやはり捨てられない。
句と節の関連、というより「節から句へ」という筋道の辿り方は、澤井康佑『よくわかる英語の基礎 基本文型・文と文の結びつき』 (開拓社、2010年) を参考にした。「形容詞節を形成する従位接続詞」 (pp. 188-235) での名詞句の限定表現の捉え方に、私のこれまでの指導法と多くの共通点を感じている。特に、不定詞による同格の扱いを関係副詞との関連で捉えている部分は、類書にはない目の付け所だろうと思う。

3学期に扱った、いわゆる「分詞構文」の扱いで、「『形容詞』派」に対する批判も盛り込んでおいた。
国内外に、「この –ingが、形容詞として働くのだ」、と主張する学者・教材作成者がいることは承知しているが、特に主節の主語が “I” の時、関係詞節での修飾にはかなりの制約があるので、全てを「形容詞」と扱うのは無理である。この部分の説明として、

  • 『美しい日本の私』 (川端康成)
  • 『あいまいな日本の私』 (大江健三郎)

を使おうと準備していたのだが、川端康成はもう「文学史の中の人」という捉え方のようでピンと来なかった模様。残念。

「文法訳読」といわれる指導方法は、昨今とかく批判にさらされる。「精読」というテクストとの関わり方は、何も日本にだけ存在する訳ではないだろうに。十把一絡げの批判よりは、唐揚げ十羽の方を受け入れたいと思う。できれば、みつせ鶏でお願いします。

さて、

  • 大阪府議会、教育・職員条例が成立 4月1日施行へ

というニュースが飛び込んできた。(いつまで続くか分からないが記事へのリンクはこちら、http://www.asahi.com/politics/update/0323/OSK201203230086.html)

この問題は公立私立、都道府県を問わず、公教育に関わる者は「当事者」として、意思を表明すべきだと思っています。私は断固反対します。「決まったことだから」と口を噤むことが最もいけないことだと思います。
「国旗国歌」の扱いで、この3月の卒業式シーズンは、主役を置き去りにした大騒ぎとなっていたように思います。
「国歌斉唱」の問題にしてみても、同じ「府立」「市立」の教育機関である、「大学」では、全く話しが別です。大阪府立大も大阪市立大も「卒業式」「学位授与式」で「国歌斉唱」はありませんでした。この条例の管理の対象は「小中高などの公立学校」のみです。
豊かで健全な教育活動が保障されることを、児童も生徒も学生も保護者も教職員も、そして社会も望んでいるはずです。なぜ、大学では「自由」な教育活動ができて、小中高では問題となるのか、問題の根本をしっかり捉えなければなりません。
「政治家が教育について熱く語り改革をしようとする時は、必ず、何か、もっと大きな問題から目をそらさせようとしている時だ」などと邪推されないように、透明でオープンな議論、批判を聴く耳を持ち、撤回すべきは撤回する度量を見せることを政治家には求めたいと思います。

政治や行政の話題でもう一つ、
私の住む市の近隣の市である山口県防府市が「東日本大震災」被災地の「瓦礫」受け入れを表明しています。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201203140039.html
詳細に関して、市民に開かれた公聴会などは持たれておらず、当然隣接市町村に住む私たちにも「聞く機会」が与えられていません。来週26日には国の担当部局が山口県入りし、首長に説明する会が持たれるようです。県議会議員の方でも、今問題を注視している方がいますが、県民はおろか県議の同席も認められず、「密室」での協議が進められることが懸念されます。
海を渡った福岡市では、市長が「震災瓦礫受け入れ」ができない理由の説明をYouTubeで公開しています。「説明」することで全てが解決する訳ではありませんが、市民を置き去りにしていないことは評価されて良いでしょう。
この問題では、私も現在、当事者です。多くの人に、自分のこととして考えて欲しいと思っています。
私の家では、昨年の震災直後、妻の友人知人の避難を受け入れておりました。もし「受け入れる」ことが被災地の復興を支える有効な手段だ、というのであれば、放射性物質の影響を逃れて避難する人たちの「生活基盤」ごと受け入れることを検討するべきだと思います。

本日のBGM: Guess I’m dumb (Jules Shear)