充ち満ちた輪郭線

tmrowing2012-03-05

学年末試験は二日目が終わり、自分の持ちコマの答案も高1のオーラルコミュニケーションを残すのみとなった。
高2ライティングは、副詞節で用いられる接続詞の前後に、主節・従節を補充する空所補充完成問題を筆頭に、空間配置から描写まで。生徒の習熟度に配慮した選択問題を設けたのだが、こちらの狙い通りの選択とはなっていないようだ。チャレンジャー向けに、ムンクの『叫び』と、ミレーの『落ち穂拾い』から1つを選択し描写するという設問を入れたのだが、それぞれ挑戦者がいたので、作問としてはまあまあの出来でしょうかね。
オーラルコミュニケーションの作問、印刷を終えて一段落。

自分の身体があの「場」の空気感を覚えているうちに、京都で開かれた、

生き方が見えてくる高校英語授業改革プロジェクト シンポジウム 「Intelligenceを高める英語教育を求めて」 http://www.ecrproject.com/55.html

について書いておきたい。

まず、シンポジウムの趣旨などの説明があり、午前のプログラム。
広島大の柳瀬陽介先生の講演。

「英語教師の成長と『声』」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/03/34.html

昨年9月の「学習英文法シンポ」では、私の事前質問で「イメージ」や「フィーリング」という部分に切り込んだことに唯一切り返してくれたのが、柳瀬先生のダマシオの引用だったのだが、私はその時に初めて知る枠組みだったので、消化不良のまま帰山したのだった。
今回、野口三千三という比較の対象を得て、くっきりと浮かび上がるものを感じられたのが大収穫であった。この講演では、竹内敏晴が『ことばが劈(ひら)かれるとき』から30年近くを経て拓いた新たな地平に、聞く者をしっかりと導いてくれたように思った。
以下、私なりのまとめである。
キーワード (これは私の主観的な言語化であって、柳瀬氏のことばそのものと必ずしも一致していない)。

  • インターフェイスとしての身体・からだ
  • 「原始的・原初的・生命体としての」非意識的な情報の受け止め
  • 生命体にとって重要な差異を感じ取るその「人」ならではの主観的な意識
  • 他者と自分という関係に依存した意識化
  • 翻訳されたイメージや記憶

柳瀬先生からの、

  • 教師や生徒が自分の声で語っているか?教師も生徒も英語が「身について」いるか?

という問いかけを受けて、

  • 身体→意識→言語

というプロセスを考えた時に、

自分の身体や意識を経由して、いざ言語化するにあたって、「そのもののことば化」ができていない現状が、ひらかれていない身体、制度化された意識としての「知」に制約を受けている。他者からもたらされる情報も、「ことばそのもの」は言ってみれば「生のからだ」から発せられるものであるために、その「生身」を自分の「からだ」で受け止めるのではなく、「…について」「…ということ」といった、要約や概要の形に落とし込むことによって、自分の身体や意識の負担軽減を行っている。そして、その「落とし込み」による「かしこそうな言葉づかい」の積み重ねによって、いざ、自分が「ことばそのもの」を発しよう、とか「ことばそのもの」を受け止めようという時に、自分の「身体が言うことを聞かない」という状態に追い込まれてしまう。

という思いを強くした。
この、要約の孕む弱さやごまかしに関しては拙ブログの過去ログ (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061125) で、

  • 宮原浩二郎『論力の時代 言葉の魅力の社会学』(勁草書房, 2005年)

に言及しているので面倒ではあるが一度お読み頂きたい。
奇しくも、日本語では、「話しの中心」のことを「骨子」と喩え、その「骨」に具体的な内容を「肉付け」したりするものだし、「話しの内容」のことを「中身」といっていたりもする。ただ、そこで用いられている言葉はすでに、自分の外にある「もの」として、形を与えられているのであって、「生命体的」な「そのもの」、「生まれ出てくるもの」「満ち足りることによって生じる輪郭線」とは違うように思う。

英語教育では、音読が流行しているが、自分の声になっていない「音」だけを発しているのではないか、という振り返りが必要だろう。

声に乗せてまでして、聞かせたいテクスト (=ことば) であるか。
その声に乗せてまで聞かせたい他者がいるかどうか。
そもそも他者として存在しているかどうか。ここでは「ひらかれたからだ」を備えた他者の存在が不可欠である。
その声で聞かせたい自己がそこにいるか。ここではひらかれたからだを備えた他者にとっての他者として存在し、働きかける自分の身体と声が問われている。

こう考え進めてきて思い出したのは、ある日授業が出来なくなってしまった、鳥山敏子さんのエピソードだった。これも竹内氏繋がり。制度が求める言葉づかいと話し方が、記号化の前段階の「ことば選び」や「うごき選び」を抑圧し、束縛する。それによって、教師の、そしてその教師の対峙する生徒の身体と声が閉じていく、という局面に自覚的な教師ほど、悩み、痛みを抱え、苦しんでいるのだと思う。
竹内氏の引用の中で、「たっぷりした声」という物言いは示唆的である。声の大きさではないのだ。人の輪郭線と同じように、声にも輪郭線があり、充ち満ちた声こそが求められるのである。その「生身の」自分から「充ち満ちる力」がなければ、押しつぶされ、縛られてしまうのだと思う。

昼食を挟んでの午後のプログラムは、研究発表。
“intelligentな” 授業実践に資する「教材案」「教材観」の提示と「指導手順」の検討に移りました。冊子として、手にとって改めて、教材・指導案を集めることの意義を感じました。大学進学の成果が問われる「文化」では、とかく進学実績の良い高校の授業がモデルとなったり、予備校の講師を招いて指導法の研修をしたりしがちです。その一方で、文科省の研究指定校になると、Can-do statementの精緻化の方向に英語科としての取り組みが進んだり、content-based さらには、CLILへと、他教科も巻き込んだ取り組みとなっていったり、ということが多いでしょう。今回示された「たたき台」はそのいずれとも違う「におい」がしました。
突き抜けるためのヒントを得る一方で、いくつか疑問も浮かんだので、その点を記しておきます。

  • 繰り返し味わうに堪える素材

ということがintelligentな授業創造に欠かせない、ということは充分よくわかりました。しかし、それは、

  • テーマ依存、プロット依存でよい

と言うことではないとも思います。
やはり、その教材で扱われる「ことば」の吟味が欠かせません。
「物語文」であれば、「あらすじ」だけをどれだけたくさん読ませても、「豊かさ」には直結しません。ストーリーの型、展開、プロット、オチなど全てを含めて、それこそ、その「物語」の「生身」の質を問わなければならないでしょう。
「説明文」では、「内容理解確認」の容易さからか、読解・聴解ともに、試験での素材文の定番ではありますが、いつまでも、「キング牧師の公民権運動について」「マザーテレサの博愛について」「スティーブ・ジョブスの革新性について」、といった

  • 「…について」

の文章ばかり読んでいてもintelligentな授業には近づけないことは分かってもらえるのではないでしょうか。前述した要約や、パラフレーズの問題とも大きく関わりますが、どこで「本物のことば」「置き換えられないことば」と出会わせるかが問われる、とここ数年来感じて授業をしています。
今言った、2点に関しては、私のこれまでの実践のうち、

  • 物語文で、異なる語彙・構文レベルでL1読解教材、L2読解教材を複数付き合わせて、同じ場面を読み比べ、表現の選択とその意図・効果を探り、グループ活動でベストと思えるバージョンを作る。
  • 詩のように、置き換えられない言葉ではなく、その詩人が書いた「散文」の原文をやさしい英語にパラフレーズして理解を図り、さらに原文に戻り、パラフレーズされた言葉との立ち位置のズレを感じ取るべく、「日本語」の助けを借りる。

といった授業で得られた知見が何らかのお役に立てるのではないかと感じました。
素材文は、必ずしも長文である必要はないと思うのです。「語」の意味をとことん掘り下げる、自分で実感が持てるまで突き詰めることから広がる視野もあるように思います。
最後に発表された授業案では、「読むべきテクスト」がそのスタートとして存在する授業ではなく、修学旅行を通じて、経験したシンガポール、マレーシアといったアジア圏での「公用語」「母語」の問題がテーマのひとつとなっていましたが、例えば、

  • an official language

と言った場合、その officialの対極概念は何か?と問い、様々な対義性を考察することも、intelligenceに繋がる可能性があると思いました。

  • private → personal → physical → bodily
  • individual → one’s own → the one you have yourself

と拡げていくことで、「身体性」や「エンパワメント」の問題にも繋げることが可能でしょう。
あるいは類義性を考慮し、

  • public との違い
  • social との違い

を考えさせることもできるでしょうし、official から名詞を引き出し、

  • office

と言う馴染みの語を取り上げれば、その対極にあるものとして、

  • home

さらには、

  • domestic

という語へと発展させることも可能でしょう。「テクスト」から一歩踏み出すことで見えてくるものもある、という良いヒントだったように思います。

「読み」がデフォルトの授業に話しを戻すと、今回示された指導手順で、気になったことのひとつは「内容理解の確認の手段」です。comprehension checkをどのように克服するか。ここにはまだまだハードルがあると思います。
今、流行の「発問」に関しては、このブログでも再三言及しています (分かりやすいのはhttp://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20091017、他にはhttp://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070925でも取り上げました) が、まだ、繰り返し足りないと思っています。
では、どうするか、なかなか妙案はないのですね。伝統ある「進学校」の多くは大規模校、中規模校なので、直ぐに取り入れることは難しいと思うのですが、

  • 加藤恭子『英語を学ぶなら、こんなふうに 考え方と対話の技法』 (NHKブックス、1997年)

で示されている「”聞き取り”の技法」 (pp. 41-69) などに突き抜けるヒントがあるように思っています。同じ著者の

  • 『こんなんふうにやれば、どんどん読める 直読英語の技術』 (阪急コミュニケーションズ、2005年)

には、より詳細な指導手順がありますので、もし入手できれば併せてお読み頂ければ喜びます。

司会の亘理先生が上手くまとめてくれていましたが、英語教育界にも、「良い英語で良い教材」の伝統はあるのです。でも、そのtime-testedな教材をどのように授業で使い、intelligenceを養うか、という段になると「各教師の腕の見せ所」のままではいけないでしょう、という問題提起として、今回のシンポジウムは大きな意味を持つと思います。
最後に『良い英語で良い教材』として私の手元にある例をいくつか。
少し古いもの (と言っても、私が紹介する本の中ではかなり新しい部類ですが) では、亘理先生も呟いていたように思いますが、

  • 『ダグラス・ラミスの英語読本』 (筑摩書房、2000年)
  • 『高校生のための英語読本 鏡としての外国語』 (筑摩書房、1994年)

少し新しいものでは、

  • 斎藤兆史・中村澄子 『文学で学ぶ英語リーディング』 (研究社、2009年)

の素材の選び方、配列、読ませ方が参考になるだろうと思います。
読むことと書くこととは表裏一体ですので、「なんで英語教師なのに日本語の作文の本を…」と言わずに、

  • 高橋源一郎 『13日間で「名文」を書けるようになる方法』 (朝日新聞出版、2009年)
  • 加藤典洋 『言語表現法講義』 (岩波書店、1996年)

そして、できれば古書で入手していただくか、図書館で借りるとして、

  • 鶴見俊輔 『文章心得帖』 (潮文庫、1985年)

を読んでおいて欲しいなぁ、と思います。

シンポジウムを終え、講師の柳瀬先生、三浦先生、亘理先生らプロジェクトのメンバーの方達と茶話会。和やかな雰囲気の中にも、刺激あり、笑いありの時間を共有させてもらいました。有り難うございます。
帰りにはすっかり雨になっていましたが、せっかく京都に来たのだから、と観光、ではなく、

  • 眼鏡研究社

へ眼鏡の修理に。丁寧にテンプルの歪みも直して頂いて、快適なかけ心地に。流石プロフェッショナルです。(過去ログだと、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20101011 の下の方に写真があります)
駅へと戻る途中で、「塩ラーメン専門」という看板に惹かれて、腹ごしらえ。綺麗でいて味わい深いスープでした。京都は塩ラーメンの名店が多いのかしら?
和菓子や、お茶、黒七味など、京都土産を見繕って帰山。
帰りの新幹線で寝過ごしてはいけないと、駅のカフェでラテのグランデを仕込んで行ったので、帰宅してからもなかなか眠りにつけず困りました。

さあ、来週は自分のホームグラウンド、ELEC同友会のライティング研究部会の公開研究会です。京都のシンポでは、田地野先生にもお会いすることができ、来週への期待が高まりました。
その前に、採点天国で浮かれすぎないようにしたいと思います。

本日のBGM: Body Fresher (Original Love)

"Strong Words" は名だたる詩人の散文集。面白いですよ。

読むことと書くことは表裏一体。加藤氏の「"聞き取り"の技法」は若い世代にも読んで欲しいです。