あめどきどきあめ、のちこころごころはれ

『相棒』のない水曜日を通過し、木曜日を迎える。2月22日は猫の日だそうな。
朝は立哨。雨交じりでスタートしたが、HR開始の頃には小やみになってよかった。
授業は濃淡ありあり。
商業科1年は、重要表現をとりだし、単純な練習を経て、ようやく本文の読み取りが終わる。
最高の音声で範読。
裏面の順送りフレーズ訳と行ったり来たりして、内容と表現形式の摺り合わせ。この段階で内容や表現で「あれ?」と立ち止まる者がいないわけではないが、全て、それ以前の段階で取り組んだことで出来上がっているのだから、振り返り、後戻りして、さらに、今いるべき処まで、戻ってくる、というまどろっこしい手順を再認識させる。
授業が展開する型、伏線の張られ方、焦点・ヒントの与えられ方など、「理解」や「気づき」にとって押さえておいて然るべきポイントを高校入学以前に、「構造」として持っていないことが、集中力の無さに繋がっている者も多い。
教師がいくら話術を磨いたり、語りを上手に伝えたとしても、聞くべき話しが聞けていない、見るべきものを見ていない段階の「耳」や「目」で外界と接している者には伝わらない。今日強調したのは、「集中して話しを聞く」「聞いた情報を保持する」「重要な情報を選び出して組み立て直す」ということ。

どこぞの市長が、小中学校で「留年」を検討させているそうだが、そんな高所からものを言っていないで、自分が小学校中学校で教育実習したらどうなのかと思う。相手に「ぎゃふん」と言わせたり、「うぬぬ」と言わせたりして「勝つ」ことに価値のある世界は、さぞ居心地が良かったのだろうが、教育現場では、そこはゴールではない。その後も、相手の面倒を見続けるところなのだから。

進学クラスは、それぞれの班で担当した物語の3場面を、相互比較を踏まえて、「これが一番良い描写」と言える英語でまとめる課題。放課後残って仕上げるか、朝一で提出、ということにしておいたが、出来上がりを見ると、またしても、ムラ。綴りの誤りとか、時制の不統一、無理やり繋いで意味不明の文があるとかの前に、お互いが書き上がった英文を「読んでいない」ことがダメ。自分が使いこなせる英語表現と自分で理解できる英語表現との綱引きに始まり、自分の陣地を拡げ、自分が使えるようになりたい英語表現を希求するまで、自分の学びはどこにあるのか、その「学び」らしきものの中に、自分がいるかどうかが問われているのだ。英語の習熟度が高い生徒が小器用にスラスラと書いて、英語としての誤りがないからそれでOKというものではない。英語が苦手な者が「その英語だと私はよく分からない」と待ったを掛ける。英語が苦手な者が書いた英語に教師からダメ出しをされる前に、「ここはどういう意味でこう書いたのか?」と確認し、「こういう言い方ならできるのでは?」と、足場を固める手助けをする。グループ課題にはそのやりとりが不可欠。なぜ、自分の読みと相手の読みをぶつけないのか、なぜ考えをぶつけないのか、その上で、なぜ全員の共有できた言葉として書かないのか。久々に本気で「つぶす」。課題のお粗末さは、能力の低さの現れではない、お互いに本気で関わっていないことの現れである。「そこにあなたはいませんでしたね」と言われるような課題を提出してはダメ。そして、そのレベルの課題を平気で提出させているような教師ではダメ。ここは自分自身の教師としての「思惑」との鬩ぎ合いでもある。過去ログでも取り上げている (http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20091117) 『からだ=魂のドラマ』から、竹内の言葉を引く。

だから逆に言うと、教師が、自分が安直に欲しがっているものを一ぺん捨ててかからなければ、つぶすということの勇気が出ないということになる。教育理論だの授業記録だのを含めて、既成のパターンを、子どもからも自分からも全部つぶしてゆけば、だれもまだ触れたことのない、ゼロの状態から始めなければならない。それから先どうするか…これは勇気がいる。なにが出てくるかわからないのですから。しかし、実は、未知の領域にふみこんだなって感覚が生まれたとき、人ははじめて集中する。だから、集中するためには、危機感がなくてはダメなんです。そこに「つぶす」ことの理性次元ではなく感覚次元の意味があると思うのですが…。 (P. 35)

放課後、たまたま、この過去ログ当時担任をしていた生徒が大学の春休みということで帰省し、学校に挨拶に来てくれました。事前にメールもよこさず、ひょっこりと。気を遣って、お土産に定番のお菓子と地酒を携えて。有り難いことです。英語という教科だけでなく、学級担任として、つぶしつぶされた末に突き抜け、辿り着いた境地があったことは幸運なことでした。彼は、自分が卒業してから経過した月日の分充実した、「学級文庫」を見て帰って行きました。今度は我が家で呑みましょう。

明けて、金曜日は「朝の講話」。
何年かぶりで当番が回ってきた。放送室から全校へ。タケカワユキヒデ氏の歌声に乗せて、「名前」の話し。
授業は進学クラスのみで3コマ。40分短縮なので、やることを精選。
高1は、ダメ出ししてあった「課題」を集めてコメント。その後、朝の講話のフォローをして、『ビューティフルネーム』の英語版の書き取り。1979年、私が高校1年生だった時のヒット曲。当時の私は東大の文Iに進んで外務省に入り、外交官になるものだ、とナイーブに信じていた青い少年だったのですね。今思い返すと、G大で良かったとしみじみ。
高校を教えて25年になるのですが、今年度は初めて、「歌」を封印して3学期まで来ました。自分の最も得意なネタを使わずに、どこまで行けるか、自分自身への挑戦でもありました。ここに来て、概ね目処が立ったので、今日解禁の運びに。
検定教科書にありがちな「説明文」や「解説文」、「…について」の文章ではなく、「物語」や「情感の言葉」を多く扱ってきたので、「歌詞」や「詩」の言葉に共鳴する下地ができたとの判断です。
早速、「脚韻」と「反復」によるリズムに焦点を当てて展開。まあ、急がず、焦らず。

高2のライティングは、 “describing faces” の課題を提出してもらって、“describing scenes” の課題を返却。自分の解答の修正から、音読での表現確認。穴埋めしかしていないと、いくら正答を得ていても「音読」にリズムは出ないし、自分の「声」にいつまで経っても「意味」が乗らない。
絵だけを見て、自分の言葉で描写するもどかしい練習での自分の出来不出来を踏まえて、自分が生き直し、自分で使いこなせるようになった表現と、まだまだ「よそいきの服」「借りもの」レベルの表現を確かめる。ここで、新しい課題配布。別の「窓から見た風景」の描写。単調で地味だけれども、どれだけ自分の言葉が育っているか、壮大な自分自身へのチャレンジです。

高1の2コマ目は、副詞節や分詞構文を経験して、名詞節へ。「ことがら」を表す「ワニの口」のバリエーション。既習事項との対比で、thatから、whether / ifまで12の例文をひとつずつ導入、観察、「四角化」作業、理解の確認、音読とRead & Look up、対比、音読、対比の繰り返し。地味です。滋味と感じられるかどうか、明日の土曜日課外が肝ですね。名詞節は「ことがら」が散らからないように自分のことばで輪郭線を引いてまとめておいたり、コンパクトに畳んだり梱包したりしてから相手へと届けるために使われるわけですから、「思考や認識に関わる動詞」や「伝達動詞の使い処」に焦点を当てて作業を設定する予定。

空き時間に、ダウンロードした論文に目を通す。
まずは、Melissa Bowerman の、

  • Starting to Talk Worse: Clues to Language Acquisition from Children’s Late Speech Errors

S. Strauss (Ed.). 1982. U-Shaped Behavioral Growth, Academic Press に収録されているもの。

The errors to be discussed in what follows appear to have little to do with communication per se. They point instead to a significance that language has for the child other than its usefulness as a tool for communication, a significance that is often downplayed or overlooked entirely in the current era of amphasis on the communicative functions of language. (pp. 102-103)

と言われたら、ちょっと読もうかなと。すると、先日読んだ、Gleitmanも引かれていた。とりあえず、先行研究としては面白いと思われている本なのだな、と思って、さらに検索したり、自分の持っている論文の参考文献を眺めていると、

  • 今井むつみ・針生悦子 『レキシコンの構築』 (岩波書店、2007年)

で、この Bowermanの他の論文が引かれているのを発見。息の長い研究者なのだろうか。
こうして、外堀をぐるっと回って、しばらくぶりに『レキシコンの構築』を読み返すこととなった次第。この分野に疎い私にも、だんだん分かってきました。第一線の研究者って凄いですね。

少し息抜きも必要、とばかりに、「学級文庫」から何冊か抜き出して帰宅。
自分の本を借りて帰るというのも不思議な感覚。

  • 多和田葉子 「声が響いているということ自体の不思議さ---ドイツと日本での朗読---」、『あたらしい教科書 ことば』 (Petit Grand Publishing、2006年、pp. 117-121)

を読み返す。私自身の目標は、詩の朗読会で「使える」リスニング能力を磨くことなのだが、

朗読を聞いている人たちは、次にどんな言葉が来るのか知らない。だから、私の口をじっと見つめて、そこから出てくるものを待っている。私が言葉を吐くと、それが、鳥のように空間に出て、ぽこっとイメージが湧く。そんな時は、手品のようだと思う。ゆっくりと出すと、イメージはゆっくり湧く。間を置けば、その間にイメージが薄れて消えてしまうこともあるし、勝手にふくらんでいくこともある。「間 (ま)」が「場」になる。

という「素敵な」言葉を、"Can-do" 開発に追われ始めた英語教育関係者はどのように読むのだろうか。
この少し後には、

日本では、作家に質疑応答をする場合、あらかじめ質問を紙に書いてもらって司会者が中から選んで読んだりすることがある。失礼があってはいけないので、と言って、作者を守ってくれる。ドイツではその場で直接思いついたことを誰でも発言できる。詩人にとっては危険なことでもある。大きな賞を取った「地位のある」詩人でも朗読の後、「あなたの詩は聞いていて全く詩的でないと感じてしまうんですけれど」などと若い子に噛みつかれる場合がある。身をさらすということが朗読会の場にでるということなのかもしれない。

というドキッとするレポートが続く。
続いて、

  • リービ英雄 『日本語を書く部屋』 (岩波現代文庫、2011年)

2001年に刊行されたものの文庫化。次は『越境の声』かな。水村美苗との対談は読んでおきたい。

本日の晩酌: 賀茂鶴・吟醸原酒・限定搾汁・平成24年 (広島県)
本日のBGM: Every child has a beautiful name (Godiego)