時流と自流

同僚から山下達郎のライブの感想を聞く明るい週の始まり。
しかしながら、まだ腹部と右脇の痛みが強く、進学クラス1年生の授業後、早退して帰宅。
『水戸黄門』のグランドフィナーレをBDで記録。名残を惜しむ。
明けて、本日は三者懇談の日になっているので、授業はなし。担任には申し訳ないが、休暇をとって栄養と休養。
昼前に、田邉先生から、刺激的なメールが届いた。楽しみでもある。
昼過ぎには、笹田先生のご両親からお手紙が届いた。とても丁寧なお言葉をいただき恐縮。自分の生を噛みしめ、本分を全うしようと思います。
自らの呟きを拾って、備忘録代わりに少し書き足しておく。

私の所属する学会の年次大会では、1コマの授業をビデオで見ての「授業研究」という企画が目玉となっています。
学校単位の成果発表会とか研究団体などの研究授業では、実際に単位時間での授業を実演したり、導入や展開など単位時間よりは短い時間でのデモンストレーションを行うことが多いようです。多くの場合は、参加者である、英語教師、または英語教育関係者の「大人」を相手にしてのデモやマイクロティーチング。
「人に見てもらうことで授業力がアップする」と思っている英語教師は多いと思うのですが、大事なことを忘れている人もまた多いように感じます。
同僚であれ、外部の方であれ、目の肥えた教師に自分の授業を見てもらうことで、改善点が得られることは確かにあるでしょう。合評会を開いて忌憚のない意見を聞くまでもなく、単にビデオを撮ったり、録音するだけでも、気づきが得られることも確か (私も20年以上前、教育実習で、自分の授業をカセットに録音して反省をやっていました)。
しかしながら、教室の外からの「目」を当てにして、自分の生徒たちから自分の授業を改善するヒントやレスポンスがもらえないと思っているのでは、片手落ちだろうと思います。
私も、前任校に着任したばかりの頃、授業が上手くいかず、教科主任のT先生や担任先生の助けも借りて、自分の授業に対しての生徒の意見に率直に耳を貸し、授業の改善に取り組んだことがあります。教員歴が20年になろうかという頃です。

  • あなたの授業を受けている生徒は毎時間あなたを見ているのです。

ということを忘れないようにしたい。今でも、そう思いますし、今だからこそ、その思いはより強くなっています。
「研究授業」でもう一つ気になるのは、助言者の存在です。「付き物」と言っても過言ではないくらい、決まって授業の後にコメントが待っています。これが何とかならないか、といつも思うのです。中高の先生の指導助言者はたいていの場合、大学の先生です。なぜ大学の先生なのでしょう?その先生の師匠だから?
高校の研究会などの場合、進学校の先生の授業を、もっと進学実績の良い高校の先生がコメントして、さらに、予備校の先生が指導したりする時代になっていますね。

  • 「話し方に緩急、強弱、高低でメリハリをつけて。喋らない時間、その間の取り方が大切!」とか、「立ち位置と、目線に常に気を配って。」など、大教室で大人数を相手にして、長時間の授業を成立させている予備校の先生ならでは視点、着眼点で勉強になりました。

などという感想を聞いたりすることもあるのですが、本当にそういうものなのでしょうか?だって、予算に余裕のある進学校だと、予備校系の「サテライト講座」とか「オンデマンド講座」を受講したりしていますよね?あれって、「立ち位置」とか「目線」とか「間」って全然関係ないじゃないですか。
結局、そういう「話芸」とか「話術」とか「プレゼン」系の授業改善って言うのは、受け手側に良く配慮した上で構成された「一方通行」の講義を精選して、極めていくものなわけで、「授業」の双方向性を最大限に活かして、滞ったり、逆戻りしたり、時には逆戻りどころか思いっきり振り出しに戻ったり、はたまた、その日の授業はなかったことに、などという「授業」ならではのダイナミズムの改善を求めてはいないわけです。
授業の構成に関しては、「生徒の集中力が続くように授業を5分とか短いチャンクで構成を」「講義型の単調な授業では生徒は寝てしまうから教師の話は最小限に」などと、紋切り型の言葉を口にする助言者もいます。でも、集中力って、短いままで良いのですか?講義や講演では、生徒・学生や聴衆は何か主体的に活動したりすることはないわけですが、そういう場合には理解度が落ちてしまっても構わないのでしょうか?ハードルを低く設定したのであれば、数を増やすとか、飛ぶスピードを上げるとか、負荷をコントロールする匙加減こそが教師の腕だと思うのです。短いチャンクでハードルをクリアーさせておいて、その後どこかで高いハードルを跳ばせてみる。という指導の流れがきちんと出来ているなら問題はないと思いますが、そこまで大学の先生や予備校の先生が、その高校の先生の授業と「コラボ」してくれている例はそう多くないと思います。
また、高校の授業を語る時に、

  • それでは生徒が寝てしまいます。

とか、

  • 生徒が寝ないように。

などというのも私にはよく分からないのですね。「前の晩あんまり寝てないのかな?」とか、心配してあげなさい、っていっている訳ではありません。だって、経験上、「百マス計算」とか「音読」をやったことのない生徒に、そのような活動をやらせてみると、最初のうちは眠くなる生徒は多いのですよ。慣れるまでは何事も大変なのです。「寝る or 寝ない」ではなく、本当に大事なことは何なのか、ということにこそ、切り口を作って、授業実演者と参加者との橋渡しをするのも、助言者の役割の一つだと思うのです。
確かに、ダメな授業もあるでしょう。その場合は、容赦なくダメだしをすればいい。でも、研究授業で見せようという場合、一般には「箸にも棒にもかからない」ダメさ加減ではなく、「箸」レベルはクリアーしているけど、「棒」としてはちょっと心細い、というようなアラなのではないかと思うのです。その場合は、ダメ出しは当然ですが、

  • 棒としては心許なかったけど、もっと細かくステップを踏んだり繰り返したりする「箸」として使えば、かなり「優れた」授業でした。

とか、

  • この授業だけで「棒」として見せようとしたことが敗因で、もう少し長く続けていっそのこと「橋」にしてしまうくらいの見通しが欲しいですね。

などという視点を提供してくれるからこそ有り難いのであって、「今日のような素材は、私もかつて扱ったことがあるが、私なら…」という「かつての達人」がお蔵だしするだけでは現場の人間としては困惑するだけだと思うのです。展開や構成など授業案にこだわったり、素材文としての教材にこだわったりというダメ出しをする助言者は多いのですが、「今日の生徒たちの学習歴と英語力から言って…」、「あそこで、あの生徒が○○という英語を口にしたけれど…」というように、生徒一人一人を見て、生徒の発話を聞いた上での助言をしてくれる助言者がもっと増えてくれると、研究授業の意味づけも変わってくるように思います。
ちょっと昔に「セルハイ」っていうのがありましたが、そこでは、文科省から視学官と一緒に指導要領作成に携わったと思しき、大学のエライ先生が巡回に来て、「王の目、王の耳」のように、評価査定を下したりしていましたよね。あれもどうなんでしょう?現場で毎日毎日、来る日も来る日も、1年間とか3年間とか6年間とかの長いスパンで、目の前の生徒と奮闘して授業を作っている教師の方が、何年も前に高校現場を離れた「エライ人」よりも数段感性が優れていると思うのですよ。

なんというか、漫才の大会で、若手が競うのを審査する、今はもう漫才をやらないベテラン芸人のコメントを聞くみたいな気がして、萎えることが多いです。『イロモネア』っていうTV番組も、もう終わっちゃったんでしょうが、あの番組で、司会の側にいたウッチャンが評価される者としてピンで舞台に出た時に、本当に勇気があるなと思いました。多分にそれも含めての「演出」「脚色」というのを差し引いても、なかなか出来ることではありませんから。
芸人の話を引き合いに出して怒られるかも知れませんが、今は亡き笹田巌先生は、あるポストへ応募する際の自分の推薦者に、学会などの「肩書き」のある人だけではなく、自分の教え子を一人加えていました。その志が今になるとよく分かるのです。

今日読んだ本。

  • 齋藤榮二 『生徒の間違いを減らす英語指導法 インテイク・リーディングのすすめ』 (三省堂、2011年)

これは、「英語授業工房」さんのブログで、私のやっている「対面リピート」に似ていると書かれていたので。名称はどうあれ、普及して欲しいと思う。

  • 今村茂男 『国際感覚と英語教育』 (ELEC選書、1974年)

teraswaさんが「英語教育論争」についてブログ記事にしていたり、浅野博先生が「小学校英語」について意見を書かれていたので、思い出したように買い戻して読んでみた。
第6章 (pp. 72-87) で「英語教育」が扱われており、その中で今村氏の「試案」が示されている。掻い摘んで示しておく。

基本構想第1段階
・ 将来英語教員になる大学生と、卒業後英語を実用する必要を感じている大学生に集中英語講座 (IEP) を開設する。大学3年、4年の2年間のうち1学期間をこのIEPに当てる。
・ 英語の現場教員の大量現職教育でのIEP。英語運用力等についての一種の検定試験を設け、必修と任意とを決める。大学の1学期分の有給休暇と、受講中の実費にあたる奨励金を出す。
・ どちらも、海外に派遣して、英語国民の生活と文化の中でIEPを受ける。
・ 経済事情でそれが適わぬなら、全国いくつかの既存・新設の施設を使い、そこへ大学生、教員を地区別に収容する。
・ 3ヵ月単位で、1年を4期に分け、1会場の1期収容人数を300ないし500とする。各会場の英語のnative speakerを受講者10-15人に1名の割合で配置し、起居寝食すべて英語でする。
・ 能力別学級編成にして、1学級の受講者数を15名くらいまでにおさえる。高度な言語理論より受講者のneedに応じた実質を重んじる。

基本構想第2段階
・ 小学校6年生全員を英語にexposeする。習わせるのではなく、英語に触れさせる。spoken English主体。書くことなどははじめから期待しない。
・ 1週間3時間程度。ゲームや歌を豊富に取り入れ、意識しないでいくつかの基本文型をきれいな発音で身につける。この年齢では、ほとんど労せずして聞いたとおりの発音の真似が出来るので教師の発音が良くなければならない。
・ 現行の6-3-3-4制の学制が保たれるなら、中学でははじめから英語を選択制にする。
・ 小学校からの内申で生徒の適性を判断する。能力、興味、将来の必要度の3つのうち、どれか一つでも持っていれば英語を履修させる。このどれも持っていない者は自分から英語は辞退するだろう。また、明らかに必要はあるのだが、能力も興味もないような生徒が英語をとると言ってきても、やめさせるように、(本人よりも親に向けて) 説得すべき。
・ 中学校では、段階的に、英語I、英語II、英語IIIを教えることとする。
・ 1年生の時にとらなかった生徒が何らかの理由で2年または3年の時にとりたいと言い出したら、英語Iから始めることとする。英語Iを1年生の時にとった生徒が学年末に学力不足と判定された時には、2年生になっても、英語Iを取り直すか、英語を止める選択肢を与える。
・ 高校では、中学校で順当に英語IIIを済ませてきた者は、英語IVに進むことが出来、学年を追って、英語VIまでとれるようにする。
・ 中学校で全然英語をやらなかった者で高校に入ってから英語を始めたい場合には英語Iから、英語IかIIしか済ませて来なかった生徒は、希望すれば、それぞれII、IIIから始められるようにする。
・ 高校では、英語以外の外国語がとれるようになっていて、これにもI,II,IIIの段階があり、英語と同様、学年度末の学力判定で上の段階に上がれる。
・ 高校では、英語を「含めた」どれかの外国語を1年間だけ必修とする。
・ 1週5日制であることを建前として、英語もそれ以外の外国語もIだけは週10時間。それ以上の段階は5時間。

この後、英語以外の外国語の地域分担制と大学の英語授業について、試案が続く。
荒唐無稽な案だと思うだろうか?今村氏は次のように言う。

義務教育12年間に、小学校6年で1年間英語のお遊びをするのと、高校で1年間、何かの外国語を1週間10時間やるだけで済む人が多いと予想される。
日本人の全員近くが中学校で3年間、多くの人がさらに高校で3年間英語をやっている現状とくらべて、決して負担を多くしているとは思えない。また学校の英語では思うような力がつかないので、中学生、いや小学生から社会人に至るまで、私塾やら英会話学校、はてはレコードやカセットに注ぎ込んでいる時間・労働・金銭も計算に入れたら、この構想が実現し効果を現す段階では、国民経済の全般にとってかなりな負担軽減になるとさえ言える。ただ、やる気のある者、やれる能力のある者は、本当に身につくまでやれるようにしてあるのと、いつでも止められ、どこからでも始められるようにしてあるだけのことだ。 (pp. 81-82)

小学校での外国語活動が始まった今だからこそ、耳を傾けるべき遠い声というものがあるのだと思う。

今日は母の命日。
心静かに北の空を仰ぐ。

本日のBGM: 時よ (山下達郎)