船頭と革袋

山口国体の総合優勝祝賀会に県のボート協会理事長と一緒に出席してきました。
平日の夕方からなので、全競技の全成年選手、監督というわけにはいきませんでしたが、知事、県議会議長をはじめ多くの出席者で賑わいました。お世話になった体育協会の方々にご挨拶をして、他競技の監督や選手と苦労話などを交わし、盛会のうちに終了。総合優勝している競技の多くは、そのまま世界と地続きで戦っているレベルにいることを痛感した2時間でもありました。
二次会というほどではありませんが、理事長と近くのお店で馬刺しと日本酒を堪能。理事長の息子さんが車を出してくれるというので、お言葉に甘えて自宅まで送ってもらいました。理事長が私の自慢の妻に会いたいというので、玄関でご挨拶。大変、お世話になりました。

今日は、祝日。文化の日。実家だと、今日で動物園が閉園になり、冬の訪れを感じる日でもあったが、今年の西日本は異常な暖かさ。
本業も正業もオフで読書にあてようと思っていたのですが、自宅で読んでいた本から、気になることが出てきて、書店へ。
ちょっと見るつもりが、結構沢山買ってしまいました。
もともとは、

  • 『季刊 現代の理論 Vol. 29 2011 秋』 (明石書店)

の「特集 脱原発へ 日本の針路」
がお目当てだったのですが、
立ち読みで済ますにはもったいないな、などと思っているうちに、いろいろなものが目にとまり、小脇に抱える本が増えていき、

  • 『AERA English 12月号』 (朝日新聞出版)
  • リービ英雄 『日本語を書く部屋』 (岩波現代文庫、2011年)
  • 吉海直人 『誰も知らなかった「百人一首」』 (ちくま文庫、2011年)
  • レイモンド・ウィリアムズ 『完訳 キーワード辞典』 (平凡社、2011年)
  • スティーブン・トゥールミン 『議論の技法 トゥールミンモデルの原点』 (東京図書、2011年)
  • 笹島茂 編著 『CLIL 新しい発想の授業---理科や歴史を外国語で教える!?---』 (三修社、2011年)

という陣容となりました。
最後の “CLIL” に関する本は、翻訳、レポート & 考察のようなちょっと不思議な内容と構成で、もう少し消化吸収するのに時間がかかりそうです。ただ、マレーシアの事例TESMEに関してはもっと深い調査や考察が必要だったのではないかと思います。「マレーシアでのCLILは失敗だったかもしれません。この失敗はアジアという地域を考える必要があります。」といわれて、その後は読み手任せにされても困るのですね。
この本でも取り上げられているポートフォリオに限らず、カンファレンス、協同学習、ブレーンストーミングなどのアイデアジェネレーション能力の開発からクリティカル・シンキングまで、上手くいくに決まっているんですよ。それを担える人材が豊富に用意されることで一人の教員の負担が軽減され、継続して取り組める予算的措置がなされ、認知学力や家庭の文化資本の高い学習者を対象にしているのであれば。私個人の実践でも、90年代に既に、ポートフォリオとカンファレンスを行い、学習者中心のライティング指導の理想的なシラバスを展開できていた。が、それは、潤沢に時間配当された極めて有能、優秀なALTとチームを組み、1クラスの人数だけではなく、その年度にトータルで担当する生徒数が少なく、しかもその科目を自らの意志で選択する意欲に満ちた生徒によって行われるという条件が整っていたからである。
大多数の公教育の現場では、それらは無いものねだりなのだから、これまでに取り組んできたけれども上手くできていなかった手法を吟味し精査していくことにまず手をつけるべきで、いつもいつも余所から入ってくる、上から降りてくる「新しい」手法や枠組みを取り込むことに躍起になるのはそろそろ止めにしてはどうなのでしょうか?60年代に取り込んだ手法は今では本当に役立たずなのでしょうか?その頃、その手法を取り込むことに尽力した方達は今の英語教育をどのようにみているのでしょうか?そもそも、その当時取り込もうとした手法は完全に身についていて、その上で役に立たなかったのでしょうか?70年代の手法はどうだったのでしょうか? 80年代でさえ、既に30年前になろうとしています。英語教育界はそろそろ本気で、これまで日本の英語教育を牽引してきた方々の「オーラルヒストリー」を纏めておかないと、自らが立つ地盤を揺るがすことになるような気がしています。
そういった失敗と成功、栄光と挫折を経た知見、経験知の上に立って判断できるのであれば、新しい手法の「新しさ」ではなく、「良さ」を評価することも可能になるのではないでしょうか。
ウイリアムズの言葉を引いて、今日は終わりたいと思います。

rational とreasonを含み、またこれらの言葉に由来する語の集まりは、非常に入り組んでいる。reasonableness (理にかなっていること) と、rationalization (合理化) とが今日どれほどかけ離れた意味を持つかを思い浮かべさえすればすぐにわかるだろう。これらの語の展開にかかわる社会的・知的歴史は測り知れないが、それでも要点はいくつか抜き出すことができる。(p. 435)
「理にかなっている」とか合理的であるということは、あらかじめ目的や体系、方法について一定の前提をもつということだが、そうした前提がじつに根強く保たれているため、他人に意義を唱えると「理にかなっていない」ばかりか、不合理 (irrational) だと (そしておそらくは何かまったく別の情緒や動機の合理化 (rationalization) だと) いうことになってしまうのである。多少の自信をもって「理性」に助言を求められるのなら、少しはこうした混乱をおさめる助けになるのかもしれないが、その理性がいかに変わりやすいものであるかは、みてきたとおりである。しかしながら、「推論」の方は今でも有効なのではないだろうか。 (p. 441)

本日のBGM: These Days (Glen Campbell)