暑中お見舞い申し上げます

本業は地元での最終練習も終え、明日、いよいよインターハイで岩手県入り。
基準値以上のセシウムが検出された牛肉の出荷停止がニュースになっているが、食の安全だけではなく、「人」の安全も気になるところ。
高文連は福島県中心での開催だから、もっと神経を使っていることでしょう。

阿部公彦氏の次の問いかけをずっと考えていたのだが、うまい答えが見つからないまま夏休みの宿題。英語教育関係者は何と答えるのだろうか?

たとえば、水村未苗の『日本語が亡びるとき』を読んで、突然、「よし英語の勉強をしよう!」と思い立った人がいたとしたら、どんな勉強法を薦めたらいいでしょう。あるいは何を薦めたら、やる気を持ってもらえるでしょうか。(阿部公彦『英語文章読本』、pp.168、研究社、2010年)

まず、『日本語が亡びるとき』を読んでいる英語教育関係者がどの程度いるかが問題か。

夏期休業とは名ばかりで世間が思うほどに「休」めなどしないのが公教育従事者なのだが、次のような一節を読むと、昔から本当に日本社会は構造的に「教育関係者」は、いくらこき使って叩いてもいいのだと思っているようにすら感じられる。

最後に一つお願いがある。それは、英語の教師、ことに中学校高等学校の英語教師を、道具のように考えていただきたくないことである。今の普通教育の英語教師は、いくら精根があっても足りないごとく、またそれは、いくらこき使っても疲れないごとく、どこまでも、まるで道具のごとくに思われている。その上、精神生活を持つ必要がないかのごとく考えられ、ただ生徒の成績を上げることにのみ専心することを求められているようである。酒を飲みたいことも釣りに行きたいこともあり、疲れれば休みたいばかりでなく、文学を研究し創作する欲望に駆られている人もある。語学的研鑽に一身を打ち込みたいと憧れている人もあるのである。歴史が好きだとか哲学が面白いという人もあるのである。そしてそれらは直接間接に、教師が自分の心の独立を守り、それを養うということなのである。先生方が自分の心を養う欲求を持っておるのは、当然のことであるばかりか、お互いに望ましいことであり、そういう機会を奪うことは、人々を不幸にすることであり、そういうことはしなくてもいいのだとその必要を認めてあげないことは侮辱である、ということを心得てもらいたいのである。 (福原麟太郎『日本の英語』、p.7、恒文社版、1997年)

心を養うことの叶う夏でありますように。

本日のBGM: Summer Breeze (Junk Fujiyama)