現任校は私学と言うこともあり、生徒は県全域から通学してくる。
昨日は時間割を変更して対応できたのだが、今日の雨は交通機関の麻痺具合、警報の地域性もあり、交通機関の見通しが立つうちに帰宅できるようにと、LHRを1時間行って登校状況を確認、その後すぐに下校させるという対応となった。よって、部活動はお流れ。
本業で本日予定していたメニューは以下の通り。

・エルゴ低レートで5分漕後ストレッチ
・フィニッシュポジションの徹底から、腕漕ぎ、10cm、1/2スライド、フルスライドのスライドピラミッド2km
・SR22で加速を意識して定常漕4kmの間にスプリント10本を挟みアップ完了
・メインメニューは2分オン・1分オフX4セットX2ラウンド
・ダウンで4km

明日も警報は続くだろうから、練習できるのか心配。でも、命の方がもっと心配だからね。
昼休みに、学校法人の顧問の方に呼びとめられ、英語科の教員の校内研修を実施するよう、助言・指導を受ける。私もこの学校にきて4年目、そういうタイミングでもあるということですかね。「山口県英語教育フォーラム」の運営に同僚も関わることで、著名な講師の方から自分が学ぶだけでなく、同僚同士では実現できなかったお互いの授業批評・批判・改善という可能性も出てきたとも言えるだろう。3月に久保野雅史先生が私の授業を見に来てくれた時も、合評会が実質校内研修の場となっていたので、流れとしてはいい方向に進んでいるのだと思う。自分も持ち味を出せて、同僚の持ち味も味わえる、そういう教師集団になれれば理想的なのだけれど…。甘言ではなく、諫言を大切に。

『英語教育』誌の「リレー連載 英語教育時評」も今年度は執筆陣が様変わり、今月は卯城祐司先生。

  • 総合的・統合的

という時流を捉えたトピック。最後から2番目の段落が議論の主題になりうるのだが、最終段落では穏やかなトーンで終わってしまった。このバトン、タスキを次の執筆者は受け取り加速させてくれるのだろうか? (来月の執筆者は大井恭子先生の模様。)
この「統合」に関連して、普段から気になっていたこと、を「英語授業工房」さんのブログ記事

  • それは本当に「出力」なのか?(7/12付けエントリー)

で内省する契機を得た。深謝。
私の心に引っかかっているのは、高校、とりわけ「進学校」といわれる学校の授業に於ける「4技能」と「入出力」の扱いである。英語教育の世界では、”input” と ”output” という用語が随分以前より用いられていたが、昨今では、定義が未整理なまま、”intake” という用語が間に入り、この3つのことばが授業中の活動を語る際に飛び交っている印象を受ける。”intake” の腑に落ちる定義付けには時間がかかるのはよく分かるのだが、 “output” というのは、その行為や活動自体に名前が付いているというよりは、

  • ”input” を「学習者に入る目標言語ならなんでも」含めて呼んでいるので、そこからのアナロジーで便宜上、「出てくるものはなんでも」そう呼んでいるというのが巷での使われ方

という気がしている。
例えば、「単語のテスト」。
古くからの語彙指導論でも、テストの方法で、「再認」と「再生」程度の区別はしていると思うのだが、これらのテストでの正解を得ることを “output” とか「出力」と呼ぶのは適切なのだろうか?
例えば、「文法語法のテスト」。
「頻出問題集」や「構文集」のような教材を用いて、それぞれの項目で提示される英文を理解する学習活動・行為・過程を “input” と呼び、正解を得る、正解となる英語の語句や表現を再認・再生する活動・行為・過程を “output” と呼ぶのは適切なのだろうか?
あれだけ批判されたパターンプラクティスで「口に出す」英語も和文英訳で「産出」された英語もみな同じレベルで "output" と呼べるのだろうか?

「リレー連載」での卯城先生の感想、

  • 何をもって「総合的・統合的」と呼ぶのか、そして、どのように「総合・統合」するのかについて、もう少し議論を深めたい気がする。(p.41)

にあるように、「議論を深める」際には、私の感想 (「違和感」とも言える) である、教室内言語活動の ”input” と ”output” の吟味、必要ならば再定義も合わせて進めて欲しいと思う。今様のbuzzwordであるintakeの吟味・再定義はそれからでも遅くはないだろう。

本日のBGM: You keep it all in (The Beautiful South)