ブラックボックスによろしく

朝から暴風雨。
もう、春一番どころか、二番か三番くらいまで吹いたように思うのだが…。
学校では追試指導。この人たちの春もまだ少しだけ遠い。
私自身は、この春で「ヨコ糸」紡ぎに一定の目処をつけたいと思っているので、

  • 英作文の際に、与えられた日本語を、より英訳しやすい日本語に置き換える「和文和訳」を経て、自分の使いこなせる範囲で、誤りのない英語を用いる、というストラテジーというか凌ぎ方

について再考しているところ。
この「和文和訳」は、受験指導ではかなり市民権を得ているように思うのだが、英語教育の分野では、これまでどの程度きちんと研究されてきたのだろうか?先行研究をご存じの方、既にご自分で研究発表をお済ませの方、是非ともお知らせ下さい。(ちなみに、私の所属する研究部会では、以前、宮城教育大の板垣信哉先生に、和文英訳・ライティングでのこのような処理に焦点を当てた講演をお願いしたことがあります。)
近年では、柳瀬和明氏の一連の著作での J1→J2→E2→E1などという考え方が、随分と高校生目線のところまで降りていて、噛み砕いて手順が示されていた。難関大学対策、という方向での理論化ではなく、日本の学習者にとって地に足のついた体系化、に近づいたものであると言えるかも知れない。
私が気になるのは、例えば、ケリー伊藤氏が力説するような、「word for word ではなく、idea for ideaでの移し替えを」という時に、本当にその「ideaを移し替えた」英語で、伝えるべきものが伝わっているのか、という部分である。
以前も書いたことがある (過去ログ→ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20071015 ) ことの繰り返しになるが、次の 1. と 2.を比べた場合に、

  • 1. と2. では伝わるものは同じなのだろうか?
  • 1. より、2.の方が英語にするのが易しいだろうか?

という疑問を解消しておきたいのである。

  1. お礼の手紙を出すのが遅くなり申し訳ありません。○○からの帰国後、二三度ほど、電話をかけてみたのですが、上手く繋がりませんでした。 そうこうしているうちに、2学期が始まったので、宿題が返却されるのを待ち、その宿題と一緒にお礼の手紙を送ろうと思っていたのです。しかし、先生がなか なか宿題を返却してくれないので、今日、手紙だけでも書いておこうと思った次第です。
  2. お礼の手紙おそくなっちゃってごめんなさい。なんか○○から帰ってきた後、2,3回電話したんだけど、かからなくて、学校はじまっちゃって、だから宿題といっしょに手紙おくろうかなあとか思ってて、でも全然返してくれなくて、それで、今日になっちゃいましたってゆう感じです。

大学入試対策に躍起になる教師でも、こと英作文・ライティングの出題となると、解答は、「それほど論理にこだわらなくても良い」とか「ネイティブスピーカーを基準に考えるのではない」などと言うひとがいるのだが、次のような英文を日本語に直す際にはどのように指導をしているか、と考え合わせると、その違いが見えてくるように思う。

Some people still persist in a view of the natural world and its inhabitants as having no other value than to serve humans as tools, objects, and resources. This approach is very different from that of indigenous people who recognize no such hierarchy and do not see a separating wall between humans and the animal and plant kingdoms. (大阪大・2010年・前期より)

噛み砕いて砕いてアミラーゼ混じりで、”確かに消化吸収はしやすいだろうけど、それってもう、もとの食べ物とは似て異なるものになってるでしょ?” バージョン

  • 大いなる自然、とか、野生王国の住民なんていったってさぁ、道具に形を変えたり、獲物として仕留められたり、資源になって使われたりして、人間様の役に立つことだけに価値があるわけじゃん、誰がなんていったって、この考えは変えませんからね、なんてまだ言っている人っているでしょ。こういう「人間偉い!」的な物の見方考え方とは随分違っているのが、先住民の教えなんだよね。彼らの考えは一貫していて、どちらが上でどちらが下だなんていうことはないし、自分たちと動物や植物の棲む世界との間を隔てている壁なんてないと思っているわけ。

枝葉末節は捨てて、大事なところだけぐっと鷲掴みにしてみました、”でも掻い摘みかも”バージョン

  • 自然や動植物の存在価値は人の役に立つためだけにあると考えている頭の固い人もいまだにいる。このような見方とは随分違うのが、先住民の教えで、彼らは人間と動植物には上下関係などなく、分け隔てる壁もないと捉えている。

前者はくだけ過ぎ、補足し過ぎ、後者は要約もどきで圧縮し過ぎと、どちらも、もとの英文に対応する日本語にはなりきれていないように思うのである。いくら受験の対策でも、「英→日」でこのような解答を推奨する教師は少ないだろう。
翻って、和文英訳で推奨されることの多い「凌ぎ方」を経て、得られた英語表現はどのくらい「等価」に近づけているのだろう?いくら更なる和訳をしたところで、その和訳後の日本語表現に対応する (= 等価の) 英語表現が自分のものになっていなければアウトプットにならないのは自明。ただ、肝心の更なる和訳をする能力は、はたして「英語力」なのだろうか。
そもそも和文英訳で「英語力」を見るのであれば、出題の時点で、すでに「和文和訳」を経た日本語によってcueを与えることで産出すべき英語のレベルやクオリティを (高く) 維持するか、もしくは「和文和訳」などしなくてもすむレベルまで、産出すべき英語のレベルやクオリティを下げておくべきなのではないだろうか。
そう考えるにつけ、まとまった分量の英文で解答を求める大学は、どのような英語を「求めて」いるのか、実例、または、その英語が満たすべき条件や要素を記述して、一般に示す必要があると思うのである。リスニング問題では、スクリプトが公開されているので、教師も受験者も何が聞き取れなかったかを確認できる。つまり、「どのような英語が聞きとれればいいか」は分かっているのである。リーディングもしかり。語彙のレベル、構文のレベルなど、実際の英文を見れば、その英語のリーダビリティなどの難易度が推測できるので、「どのような英語が読めればいいか」は明らかである。これに対して、現行の大学入試では、スピーキングの試験がほぼ実施されてないため、ライティング問題・英作文問題だけが、「どんな英語が書ければよいのか」がブラックボックスのままなのである。こういう状況で、「アウトプット」とか「発信力」というバナーだけが一人歩きするのを危惧する。

改善を求めたい、と訴えてから4年。そろそろ、個別の情報公開に応じる大学は出てきたが、大学の公式サイトで標準解答例として広く一般に公開するところはまだまだ少ない。英作文・ライティング問題で求められる「英語」の実態、そして「ライティング力」が明らかになる日が来るまで、「再現答案プロジェクト」を地道に進めていくつもりである。

本日のBGM: 遠い旅人 (綿内克幸)