after all these goose bumps

起き抜けにバンクーバー五輪。
スピードスケート男子5000m。韓国の選手のねばり強い滑りに驚く。この種目アジア初のメダルだそうな。STやフィギュアだけではないところを見せたということか。
上村選手のモーグルは予選・決勝とも観戦できたので吉。決勝の彼女の滑りの後は、画面の前で合掌して祈ってしまいました。順位は4位。今は、ただただ拍手を送ります。
日本のメディアは相変わらず「人間ドラマ」を演出して盛り上がりを狙っているけれど、スポーツそのものの凄さ、素晴らしさをもっとダイレクトに伝えられる「スキル」を明確にして、その「スキル」を有した「人材」を育てることに注力した方がいい。スターを作ることに躍起になり、そのスターに乗っかって儲けることだけを考えていてはどんな人気スポーツも早晩衰退する運命だろう。
タイム以外は採点競技であるこのモーグル。フィギュアの採点と異なり、どの国のジャッジが誰に何点つけたかが明確に分かるスコアシートになっている。そして、日本人審判は、エアーの採点で1名入っていた。上村のエアの得点は2位。実況で、「このターンは女子では彼女にしかできません」と繰り返し絶叫していたターンによる得点では、皮肉にも、表彰台には届かない5位であった。
私見ではあるが、採点競技で

  • 五輪の決勝で採点に携わる審判員がいる。

というのは、審判のレベルも世界のトップレベルであるということで、モーグル競技において、日本という国としての競技力がどのくらい高いのかを示す指標となるのではないかと思っている。
フィギュアスケートも世界のトップレベルで鎬を削る選手がたくさんいる。競技会が終わるたびに、審判の判定に関しての物議が起こるのがフィギュアのファンサイト。では、日本の審判のレベルは世界的に見てどうなのか?去年から、審判の世界の大御所であったソニアさんと何度かメールのやりとりをして、審判という人たちがいかにこのスポーツを愛しているかを実感できた。だからこそ、判定の世界水準を、一般のファンにわかりやすく伝えることができるトップレベルの審判に直接解説してもらったり、コメントを求める、というようなことがもっとあっても良いだろうと思うのである。
そんなところにも、メディアが当てる光が届けば、見る者の目ももっと肥えるのではないだろうか。

その一方、不愉快なのが、スノーボードの某選手にまつわる過剰な反応。
国会会期中の参議院議員であるにもかかわらず、日本選手団長としてこの五輪を率いている橋本聖子氏が次のようにコメントしているのだが、正しく引用されているのだろうか?

  • 子どもに夢を与えるのが最大の仕事。競技をしないで帰国することは逆に無責任になる。(サンスポ)

いつから、スポーツ選手の仕事は「夢」や「感動」を与えることになったのだろうか?選手の最大の仕事は、最高のパフォーマンスをすることでしかないだろうに。統括競技団体が選考し、JOCが承認したということは、「国」からお墨付きを与えて、五輪に送り込んでいるということなのである。
これが、金メダルに値する好演技にもかかわらず、採点を不服として、3位の表彰式を欠席したとか、メダルを雪山に投げ捨てて帰ってきた、とかいうならまだ怒りも湧こうが、開会式の場でも、公式会見の場でもない、競技が始まってもいない今の段階で何を騒ぐことがあろう。彼が、単なるビッグマウスなら競技後に叩きたいだけ叩けばいいだろう。
水泳の千葉選手の不当な代表選考の頃から、世間のスポーツを見る目は何も変わっていないように思う。そして、その「目」を作ることに荷担しているのは、明らかにスポーツ報道やスポーツノンフィクションのつくる「物語」なのである。
そうそう、開会式で、カナダを代表する歌手であるJoni Mitchellの歌が用いられていたのはファンとしても嬉しいが、ドナルド・サザーランドを紹介する日本の某局のアナウンサーが、「24のキーファー・サザーランドのお父さんです」というような形容をしていたのが気になって仕方なかった。

さて、人からもらう感動に浸ってばかりもいられないので、自分の実作。今日も、原稿書きの準備で、和英辞典の読み比べ。そろそろベクトルが定まってくるべき時。和英辞典といっても千差万別。たとえば、今日の記事の冒頭、「起き抜けに」という言い方も、和英を引くと、エントリーで、

  • 「おきがけ」を引くと→「おきぬけ」を見よと示し、そちらの項で処理するもの (例: 『ルミナス』研究社)
  • 「おきぬけ」を引くと→「おきがけ」を見よと示し、そちらの項で処理するもの (例: 『スーパーアンカー』学研)

もあれば、

  • 「おきがけ」の項はなく、「おきぬけ」の項にのみ示すもの (例: 『クラウン』『ウィズダム』三省堂)

もあり、エントリーとして

  • 「おきがけ」も「おきぬけ」も項としては立てずに、「起きる (= おきる)」の項の中に、「おきぬけに」を含む用例を乗せるもの (例: 『オーレックス』 旺文社)

もある。個人的には『ウィズダム』の扱いが用例も含めて好もしく思う。

煮詰まりそうになったら、ブログ探索。
山岡大基氏のサイトに、『英語教育が亡びるとき』の書評が載った。年末の語研で山岡氏にお会いした時に、

  • いやぁ、今読んだら仕事できなくなるから、と思ってずっと書棚にある。

と伝えていたくらいで、私は買ってから2ヵ月近く読み進めることができなかった。
山岡氏もさぞかし難産だったことだろうと思うが、読み応えのある「マジメな」書評である。
私も、これをやり過ごせるくらいの度量とか器を持っていればよいのだが、そうではないので、自分のバランスをどこかでとろうとするのですね。一番楽なのは、大きいモノに連なって安心すること。これには用心しないと。自分が大きくなったわけではないからね…。

浅野博氏のブログの記事が更新され、「国際理解教育」に続いて、「センター試験」に対する問いかけがなされていた。そのうち、国際理解教育に対しての問いかけ、

  • どうして英語教育は、何でもかんでも引き受けようとするのであろうか

という行に大きく頷く。何かを抱えたら、その分何かをその背から降ろさないと身動きがとれなくなるもの。
「センター試験」に関しては、少なくとも「英語」のテストとして現在の出題はどうなのかという議論が、英語教育界で表だってなされないのはあまりに不健全である。
毎年約50万人が志願し、今年は3教科以上の志願者が約54万人である。その受験料収入だけで、97億2千万円が動く一大事業なのであるという事実を踏まえ、一人一人の受験料がどのように使われたのかという会計報告をきちんとすることが必要なのではないだろうか。そうでなければ、受験料が高いのか低いのかの評価もできない。テストの運営管理に関しても、教育界全体のみならず、国民的議論があって良いだろうと思う。その際に、高校を卒業する者のうち、センター試験に参加する者は半分にも満たないことをしっかりと認識しておくべきだと思う。

その後、『片岡本』、『松本本』、『山田本』、『長谷川本』などなど。
おやつを挟んで、『新英語教育』 3月号 (三友社出版) を読む。
「読者の広場」で東京の高校の先生である、秦英夫氏が書いていた、

  • 「英語で授業」の現実とたてまえ (pp.2-3)

はかなりの字数を割いての掲載だけに、編集サイドでも意味のある投書という判断なのだろう。その中で、SELHiの成果に言及する箇所があるのだが、「中身の薄い英会話学校並みの授業に終始していた」という記述は慎重に解釈したい。いや、曖昧性を問題視しているのではなくて、「中身が薄い」という結果はSELHiという制度にあるのか、英語で授業という方法にあるのか、それともその学校の特異性なのかということを抜きに一般化するのは誤解を招くだろうということである。

『片岡本』のうち、『英語を日本語で考える・単語篇』 (フリースタイル、2001年) のあとがきより引いて本日はお終い。

  • イマージョンとは、たとえば子供にとっての現実である学校で過ごす時間が、すべて英語で営まれているという、よく考えてみれば単純きわまりない状態だ。勉強の時間が一日に一時間もとれない人が、自分で自分の勉強のために作り出すべきイマージョン環境がどのようなものとなるか、ここから明らかになっていく。自分がいま日本語で引き受けている現実と、完全に地続きである現実のなにほどかを、英語に変えればいいだけのことだ。英語が自在に使えるようになりたいとは、いま自分が日本語で引き受けてこなしている現実とおなじ程度の現実を、英語でも引き受けられるようになりたい、ということではないか。 (p. 212)
  • 日本語ではなんの無理もなく反射的に口をついて出てくる言葉なのに、それを英語では何と言うのか知っていなければ、いかに陳腐なことがらをめぐってであれ、英語で話しをすることはできない。いくら頭の中を探しても、知らないものは出てはこない。知らなければ、少なくともそのときその場では、それっきりだ。単語をならべることすらできない。しかし、勉強の過程のなかで遭遇していったん覚えてしまえば、それ以後はどこまでも使うことができて役に立つ。(pp.214-215)
  • ひとつのことを言いあらわすために選んだ言葉は、正しい語順でならべなくてはいけない。正しい語順というものは、文法のルールによって否応なしにきまってくる。だから語順は文法のルールであり、そのルールにのっとった音声が正しい音声として厳然と存在するから、その人がどの程度まで英語の構造を理解しているかが、音声のなかにすべて出てしまう。逆に言えば、音声を正しく整える学習をとおして、文法のルールを文脈つきで覚えていくことは充分に可能だ。(p. 218)

本日のBGM: Superwoman (where were you when I needed you) / Stevie Wonder