るあはにいせんじもいがいらなよさ

中間テスト始まる。
高1、高2と1科目ずつ結果が出てきた。
年度の後半に向けての修正点を絞る必要もあるのだろうが、まずは教科書の英文が頭に入っていないことにはどうにもならないので、一層の精進は続けてもらわないとね。
今回の問題の解題は全ての科目終了後にでも。

ナラティブ・シンポを終え1週間が経とうとしている。
作問を全て終えて、少し落ち着いてきたので、英語教育界でのトレンドで気になるものについて私見を記しておく。それは、「国語教育」との連関。
今月の『英語教育』 (大修館書店) の特集が、「音読でどんな力を伸ばすか」という問いかけである。
執筆陣も豪華。
今月は参考文献に日本の研究者・実践者の名前が多いのにお気づきだろうか?そう、「音読」そのものの効能はSLAではあまり顧みられないのですね。いっそのこと、この人たちを一堂に会して討論をしてみたらどうなのだろうか?その時に、Focus on Formのエキスパートも合わせてお呼びすることにしては?
私のブログでもこれまでのエントリーで音読についていろいろ書いてきたが、最近は自分の取り組みそのものを見直している。その際の物差しは、母語である国語教育での実践・成果である。

  • 荒木茂
  • 伊藤経子

という名前が、英語教育界の人間の口から出てくることはほとんどない。私自身、荒木氏のことを知ったのは『現代英語教育』 (研究社) の「私のリソースブック」という連載記事だったように思う。
伊藤氏に関しては、倉沢栄吉や青木幹勇といった国語教育での実践から国土社のシリーズを読むことで初めて知るようになった。(過去ログでの言及はこちら→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20090629, http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20090625
川島隆太・安達忠夫の『脳と音読』 (講談社, 2004年) を引くくらいなら、こういう国語教室での豊かな実践の成果にこそ英語教育の側から光をあてるべきではないのか?

とはいえ、英語教育界を背負う若い世代にも、

  • 荒木茂 『音読指導の方法と技術』 (一光社、1989年)
  • 伊藤経子 『音読の授業』 (国土社、1988年)
  • 伊藤経子 『続・音読の授業』 (国土社、1990年)

あたりを読んで見ようという人がいるかもしれないと思い、ここに記しておく。

国土社といえば、ナラティブ・シンポの最後に紹介した本が、

  • 青木幹勇『第三の書く 読むために書く 書くために読む』 (国土社、1986年)

である。私は、自分でライティングを専門といっているが、自分の実践の多くは、L1としての日本語指導となる国語教育に於ける「書くことの指導」と、L1としての英語指導である、北米や英国の小中高での「書くことの指導」を下敷きにしている。
この『第三の書く』で特筆すべきは、書くことと読むことの関連づけをしっかりと考えていることもさることながら、「授業では一人一人の多様な学び」をいかに保証するか、に腐心している、ということが上げられる。その一例が「発問」である。過去ログでも、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060414
で取り上げているが、3年以上も前のことなので、再度触れておきたい。少々長くなるがお付き合い頂きたい。

  • さて、授業にとって発問は不可欠のものとされ、支持されてきました。しかし、発問の有効性をそれほど大きくとりあげていいものでしょうか。発問の機能を疑ってみる、あるいはその限界を知ることも、発問研究の中に含めるべきではないかと思います。 (pp. 117-118)
  • わたしたちが、年間何十回も見せてもらう公開の授業、なかでも読むことの指導は、そのほとんど全部、主題に迫る、登場人物の心情や場面の情景を読み深める、事実や論理を追求しようというようなねらいの授業です。/ これはこれで、どうということはありませんが、このようなねらいをもった読みの指導と学習が、もっぱら、発問とその応答、ときにこの応答から話し合いへという展開のパターンですすめられているのです。これは問題ではないでしょうか。/ 公開授業がこうですから、おそらくふだんの授業もこうなのでしょう。今や、この授業パターンは、国語教室のもっともオーソドックスなものになっています。そしてこの種の授業は、当然、常に追求的であり、分析的です。文学的な教材であろうが、説明的文章であろうが、発問によって「だれが」「なぜ」「どうして」「どんな気持ち」「そのわけは」と問いつめていくのです。(中略) みんなで読んでいても、一人ひとりが、考える時間をもち、他にとらわれず想像をひろげられるような学習を確保してやることが望ましいのです。しかし、終始発問で引き回す授業では、この大切な指導が欠けやすくなります。 (pp. 123-124)

私は最近読了したのだが、

  • 田中武夫・田中千聡 『英語教師のための 発問テクニック 英語授業を活性化するリーディング指導』 (大修館書店、2009年)

を読んだ英語教師は多いと思うし、自分の授業の見直しに資する本だという評価をした人も多いと思うのだが、そこで安心してはいけないのだと思う。国語教育は、その段階を昭和30年代に経験し、成果も課題も引き受けながらその先を模索しつつ今へと至っているのだろうから。
今回の『英語教育』の特集で、一人でも、このような国語教育での臨床の知を引き出すことのできる編集者がいれば、もっと違った地平が開けていたかも知れないのに…、と歯痒く思った。

作問の合間に読み進めているのが、

  • 『ことばの見本帖』 (岩波書店、2009年)

『ことばのために』シリーズの最終巻となるのだろうか。今回、荒川洋治の最後のまとめに入るあたりの一節、関川夏央の「小説の読み方」に対する視点の確かさには、信頼感のようなものを感じたのだが、最後を飾る平田オリザの「演劇のことば ―全十幕―」では戯曲家・演出家としての氏の背景も透けて見えてくる。必読。

ただでさえ懐が寒いのに、買ってしまったのが、

  • ホミ・K・バーバ 『ナラティブの権利 戸惑いの生へ向けて』 (みすず書房、2009年)

磯前順一・ダニエル・ガリモア両氏による翻訳。日本独自の企画である。私が、バーバの名前を知ったのは、『現代思想』 (青土社) の1999年6月号。「特集 大学改革」の中の、本橋哲也氏の論考、「応答するエイジェンシー」 (pp. 207- 217) が最初である。そのころも今も共通しているのは、難しくてわからないけどこの先に何かがあるという予感がする、ということだけ。もっと賢くなりたいものです。

グランプリシリーズの初戦。舞台はパリ。
殿は演技後また泣いてましたね。
女子SPを終わって、ボンド・ガールのキム・ヨナ圧勝。ファンとしては複雑な思い。技術的にはオープニングのコンボくらいしか見るところがなかったように思います。苦手なループ系は完全回避。ビールマンだけでなくスピンの軸がことごとく撚れ、深さも足りず、ステップの足捌き自体もまったりしていたのにあの点数ですから。一大事です。直後に滑ったコストナーは大変だったろうなぁ…。ゆかり姉さんは、白と黒の大胆なデザインの衣装で『オペラ座の怪人』。そつなく演じきりましたが、ちょっと点数が伸び悩み。浅田選手は6分間練習で執拗に3+をやったのが裏目に出たのか、またしてもすっぽ抜け。全体的には昨年からのレベルアップが伺えるような出来だったのではと思う。レイバックにしても、サイドウェイズにしても上半身のポジション、ポスチュアーがとても美しくなっていて、フライングシットのバランスなど、フィジカル面に関して言えば牧野トレーナーとの共同作業が上手くいっているということを実感した。スケーティングそのものは明日のフリーを見てみないと何とも言えないが、自分の演技に集中できるようファンも含めて周りがサポートしてあげたいものである。個人的にはスパイラルでケリガンに移行するところが大好きなので、明日のスポーツ面ではその世界一美しい瞬間を使ってあげて下さい。

本業は戸田で全日本新人選手権。
インターネットで結果を見るだけではあるが、今年も、高校生、そして中学生の健闘が目につくようだ。
明日は、私も湖で本業。
他県のチームも合同練習に来ているので、揉まれてきます。

トノバンの訃報に暫し呆然。
失ったものの本当の大きさをいつの日かまた知らされるのだろう。

本日のBGM: Finger Dancin’ (高中正義)