You must tell my fortune.

今日は夏らしい天気。空は高く、陽射しは痛いほど。
朝から、職場の定期健康診断。今年もバリウムからは逃げておいた。胸部レントゲンも、できれば逃げたいのだが…。
野球部が、グラウンド整備を入念にして、早速練習をしていた。
遅い朝食を食べて、昼からは寮の当番。
昨日相談に来た生徒が、書店に『やれでき』の在庫がなく、注文になるというので、届くまでの間、高2の「学級文庫」に在庫してある3冊のうちの1冊を貸す。

夕方、いったん帰宅してから、「山口県英語教育フォーラム」で使用予定の会場ホールを視察。今日は大ホールを使用する団体は無く、照明・空調まで会場スタッフは笑顔で対応してくれた。感謝。広さ、明るさ、音響、エントランスからホールまでの形状などを確認。プレゼンで用いるスクリーンをどうするか要検討。来週くらいには会場の決定ができるだろうか。
講師の方々にメールで使用機器の確認。

妻の意向で書棚のある部屋の模様替え。机と書棚のレイアウトを変更し、タンスもおけるように。私の「城」のような使い方ができるというわけだが、整理整頓がどうなりますか。私自身が整理されてしまわぬよう気をつけねば…。

さて、
来年度の採択教科書を考えているときにも思ったのだが、英語の学習はいつから「問題集」に支配されるようになったのだろうか?いや、より正確に言えば「過去に入試や検定に出題された問題を精選した問題集」に支配されるようになったのか、ということである。適切な学習教材が「教科書」ではなくなって久しいように思える。

國弘正雄氏の言葉だったと思うのだが、

  • あるがままの英語が最高の辞書だ。

というアナロジーが成立するとすれば、

  • あるがままの英語が最高の教科書だ。

もまた成立しよう。しかし、

  • あるがままの英語が最高の問題集だ。

はちょっといただけないだろうと思う。
今時の学習者は、そのあたりどうなの?

「問題集」依存体質は「模試」依存体質に繋がりやすい。過去ログでも指摘したが、GTEC for studentsというベネッセの行う「英語コミュニケーション能力」を推測するIRTを援用したパフォーマンス志向の試験でさえ、「準拠問題集」を欲しがる人がいるくらいなのだ。この試験、4技能のうち「ライティング」では、IRTに頼れないからこそ、実際に書かせてそのパフォーマンスを評価していることに意義がある。今やSELHiだけでなく、「進学校」と言われている高校でも受験しているこのテスト、教師の側が、テストの持つ意味を正しく理解することが重要である。

ベネッセもGTECの受験者数を増やすことだけを考えるのではなく、本気で高校生の「英語力向上」を目指すのなら、ライティング指導のあり方を改めて考え、GWTの改訂・更なる普及も含めてできることを模索して欲しいと思う。

本日のBGM: Reader and Advisor (Loudon Wainwright)