”People need some reason to believe.”

今風の「英語教育」が次から次へと掲げるバナーに馴染めず、かといって「受験のプロ」と自称して、学習者の資質の高さに依存した英語学習の成果を自分の指導の賜として誇る気にもなれず、地に足のついた、母語と外国語の間での、自らの使用する言語に対するempowermentやidentityも含めての摩擦や鬩ぎ合いの果てに見えるやも知れぬ「何か」を探り続けるような学びの場が授業だとずっと思ってきたのだが、そういうことは今や誰も欲していないのだということを突きつけられる日々に疲弊しそうだ。
これだけ、情報が行き渡り、教材・教具が普及し、ITの恩恵で、目標言語のネイティブスピーカーが側にいなくても学習が成立する時代に、英語教師の役目とは何ぞや?
高校レベルの英語学習においては、「ライティング」において唯一、自分の書いたものを添削・評価してくれる「第三者」の存在、すなわち「作文の教師」が必要である、との認識でライティングの分野で主として実践を続けてきたのだが、それも今後必要がなくなるとなれば、私の存在意義は何?

  • 学習者の視点
  • 学習者の心理

結構なことです。
でも、覚えるべきリストを示してもらって、覚えたかどうか小出しに順番にテストしてもらって、その都度「よくできました」と花○をもらって、本当に嬉しいんだろうか?
たしかに、思考や発想法、論理だけでは英語はできるようにならない。語彙と文法をこの順序で覚えることは当然の前提である。しかし、だ。何から何までお膳立てされて、ルーティーンワークと化したその一連の「作業」のゴールは?志望校の合格?英検の上位級の合格?TOEFLやTOEICのスコアアップ?
自分の言葉はどこ?自分の学びはどこ?

不幸自慢をするつもりはさらさら無いのだが、教室にいるとひどく場違いな感じが拭えない。

  • テキストがある、和訳も与えられる、CD音源もある、解説のプリントも配られる、チャンクごとに改行し、センタリングされたワークシートも与えられる

では、学習者が自分ですることは?

  • 入試頻出の長文問題を誰かが精選してくれたテキストがある、項目ごとに編集され読解におけるどんなスキルや知識が問われているかがすぐにわかるように構成されている、解答と解説と全訳もついている、CD音源もついている

では、学習者が自分ですることは?

  • 4択や整序などの頻出文法・語法問題を誰かが精選してくれたテキストがある、項目ごとに編集されどんな文法項目・語彙項目が問われているのかがすぐにわかるように構成されている、解答と解説もついていて、丁寧に和訳までついている

では、学習者が自分ですることは?

上述の「学習」のプロセスにおいて、「英語教育」プロパーの人たちがよく言うところの pre-, while-, post- とはいったい何?

さて、ここまで繰り返してきた問いをこう変えたらどうだろうか。

  • では、教師のすることは何?

本日のBGM: Running on empty (Jackson Browne)