私心詩語

朝7時半から夕方6時半まで、模擬試験監督などなど。
本を大量に持ち込み試験中に読破。
今回はマーク模試ということで、解答を選ぶだけで済むので、英語だけは試験開始とともに自分でも解いてみた。筆記は所要時間約25分。ちょっと簡単すぎるね、でも。次のS台との共催模試くらいからなんでしょう、模試らしくなるのは。
合間に、論文を一つ読む。英検の助成研究。

  • 高校生の自由英作文指導におけるピア・フィードバックの活用---プロセスの改善とライティング不安の軽減の視点から---

広島大附属中高にいらした久山慎也教諭の実践報告である。「ライティング」そのものの指導回数が少なく、期間などが短い点を差し引いても、全体的に良質の実践に基づく報告となっている。
ただし、国内の、高校生を対象とした実証研究が少ないことを指摘して次のように述べているのだが、この状況判断というか背景分析は慎重にした方が賢明だろうと思う。

  • 日本の高校教室におけるPF活動の有効性を検証するには圧倒的に実証研究が不足している。(p.170)

80年代、90年代の国内で発表された日本語で書かれた研究論文や実践報告などは全く参考文献として取り上げられていないことに加えて、次のような姿勢はやはり一般的な英語教室には馴染まないのではないだろうか。

  • PF活動により英作文得点が上昇したのか、単に書き慣れたことにより英作文得点が上昇したのか、統制群を設定し比較を行うことで、この点について今後明らかにしていかなくてはならない。(p.177)

申し訳ないが、ここだけは勘弁して欲しい。
この論文は、英検助成のB部門、つまり「実践部門」の報告なのである。
慣れだろうが、ストラテジーだろうが、指導の結果、学習やトレーニングの結果として英作文の能力が上がったのなら、それを素直に喜べば良いではないか。なぜ、いつもいつもいつもいつも実証的研究の名のもとに統制することをほとんど望めない統制群を作りたがるのか?百歩譲って、統制できたにせよ、学習者の能力をどんどん伸ばすのではなく、英作文能力の向上が制約を受ける学習者を意図的に生成・産出するその倫理的根拠とは?
ライティング指導に教員のキャリアのほぼ3/4を費やしてきた者としては、「自分の信ずる指導法」で今後出会う生徒たちを育てていって欲しいと願うばかりである。
そもそも、個人の実践からの一般化とか普遍化とかを無理にする必要があるのだろうか?
私が「なんです山脈」をやろうという、根っこにはそんな想いがある。
確かに、これまで良質な研究や実践、調査がこの英検の助成研究でなされてきた。中高に現場というものがあるのであれば、大学や実業界にも現場があるに違いないのだろうが、中高現場での研究や実践を論文にまとめた受賞者は、中高の教師であったからこそ、その力量を認められ、その手による論文が高い評価を受けたはずなのだが、受賞者の多くがその後、大学へと籍を移しているような印象を受けるのはなぜ?その懸賞論文は、大学のポストを得るための登竜門?
英検助成、中村賞、金子賞、さらにはELEC協議会が授けている「ELEC賞」など、複数の懸賞論文に同じ論文を二股三股で応募している例も耳にする昨今である。
何か、違和感を覚える。
教師にとっての教室ってそんな生やさしいところじゃないだろうに。馬糞雲丹。

G大コーチ時代に教えていたB東選手が日本代表としてワールドカップ第2戦 (ミュンヘン)、第3戦 (ルツェルン) に参戦するということで、今夜はその壮行会とのこと。流石に上京は無理だが、幹事役の後輩が激励メッセージをお願いしますというので、メールを送る。

来週の博多行きに合わせてもろもろの手配調整。楽しくなりそうな予感。
夜、某局でハインデルの特集。画面で見て感動しているようではこちらのアンテナもたかが知れているのだろうが、姿勢に込められた精神性というか、崇高な宗教画を見たかのようであった。

本日のBGM: 時代 (中島みゆき)