大言体現

年度末最後の出校。持ち越しの案件一つ。
自分の力の及ばぬことに悩みすぎぬことだ。
職場に朱牟田夏雄『翻訳の常識』(八潮出版社、1979年)、多田幸蔵『英語動詞句活用辞典』(大修館、1982年)が届く。こうして、一つ一つ、思い出したように、愛おしむように、かつて処分した書籍を買い戻している。理由はどうあれ、一度は手放したことに対する赦しはあるのか。
自分の力の及ばぬことに悩みすぎぬことだ。
安藤選手のEXで思い出して、槇村さとる『ボレロ』(集英社文庫)を読む。長野五輪の前だから、すでに10年上前の物語。スピードスケートとアイスホッケーの盛んな土地に生まれ、2歳半からスケートをしていた私にとって、フィギュアというのは、何か神聖で尊い価値を体現している、競技スポーツを超えたような存在であり続けていた。今や、欧州でも米国でもかつての人気は翳り、イベントは乱発され、繰り返されるルール変更に選手も指導者も翻弄されぬよう藻掻き苦しむ。まるで、WBCのように、日本と韓国からお金を引き出す打ち出の小槌のようなスポーツになろうとしているのだろうか。
自分の力の及ばぬことに悩みすぎぬことだ。

『初等教育資料』4月号は特集「新教育課程の全面実施に向けて」。
まだ書店店頭に残っていたので入手。当然のように、外国語のページから読むのはどうしようもないエゴの発露。

  • 論説11・外国語活動の移行期の実戦課題と指導の工夫(pp.48-51)

は菅正隆氏の筆。肩書きが長い。文部科学省初等中等教育局教育課程教科調査官・国立教育政策研究所教育課程研究センター研究開発部教育課程調査官。重いのは肩書きか、責任か。
菅氏はこの官報の性格の濃い雑誌だけでなく、いろいろな媒体でしきりに「目標」の確認を訴えている。要点を記す(not in so many words, though)。

  • 「コミュニケーション能力の素地を養う」という目標なのだから、「英語運用能力(スキル)」のみを向上させるものではない」
  • 英会話やパターン・プラクティス、ダイアログの暗誦は目的にそぐわない。
  • フォニクスは中学校で扱う内容であり、小学校高学年の週1コマで行うものではない。

では、何を指導するのか?

  • 体験し、気づくこと

というのだが、ちゃんと指導できましたよということは何で確かめればよいのか?そもそも、

  • 外国語を用いてコミュニケーションを図る楽しさを体験すること。

のためには、そもそも、ある外国語(=英語というのが世間の理解だろう)を用いることが出来なければならないのではないか?そこに、スキルの介在する余地はないのか?語彙や語順など知識を蓄えておくことは必要ではないのか?
自分の力の及ばぬことに悩みすぎぬことだ。

  • 5. 指導者について

は問題山積のままの見込み発車である。

  • 学級担任が指導力向上のためにも、授業の中心になって進めることが大切である。

といいながら、その支援体制は地方自治体によってあまりにも格差がありすぎる。
読売の記事→ http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20090329-OYT8T00273.htm
ここでの「週1回以上を予定しているのは、京都市やさいたま市など。東京・港区は週2回となる年70コマで、突出して多かった。年15〜35コマを目標としたのは、川崎市や葛飾区など12市区。大阪市(9コマ)、札幌市(10コマ)、静岡市(同)、浜松市(12コマ)は少なかった。/ALTの雇用などに充てる予算も各地で差があり、最高が港区で1校平均586万円。同12万円の大阪市とは49倍の差があった。予算の多い自治体はALTを多用し、予算の乏しい自治体は担任教師がそのまま英語を教える傾向が見られた。」という記述を文科省はどのように受け流すつもりなのか?
ALTを雇う金のない自治体が白羽の矢を立てる、協力を求める対象となる「地域の人々」は、なぜ安い人件費に甘んじているのか?公的な法的裏付けのある資格がないからである。教員養成の整備でも問題は同じ。小学校の専科に「英語」をつくるためには「教科化」が必要となるはずだが、どのメディアも「教員資格」の問題に踏み込んでいない。たまたま、県内の動向で目にしたこちらのニュース(山口新聞)にも驚きを隠せない。→ http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2009/0207/8.html

このブログで再三指摘していることだが、正当な報酬に日本人教諭もALTも地域人材もないはずである。同じ仕事をしていながら、報酬が異なることを正当化するなら公的な法的な「資格」の問題をクリアーするのが先決ではないのか。そんなに、お金のかかることを国を挙げて一律に始めるのなら、その分国家予算で計上し支援するのが筋ではないのか?
自分の力の及ばぬことに悩みすぎぬことだ。

菅氏の締めくくりのことばは、もの凄く、済し崩し的、さらには暴力的に響く。

  • いずれにしても、小学校段階における「外国語活動」が日本の教育史上初めて全国的に始まるわけである。人とコミュニケーションを図ることが嫌いな子どもを生み出したり、英語嫌いの子どもをつくりだしたりしては、中学校から始まる外国語科における指導においても禍根を残すことになる。学習指導要領に定める目標に沿った適切な指導が求められる。

4月5日の英授研でどんな「コミュニケーション」が図れるか、この機会くらいは活かして、自分の力を及ばせたいものだ。

本日のBGM: (Hey Big Mouth) Stand Up and Say That / Nick Lowe & His Cowboy Outfits