先日、早朝のジョギング中に、どこぞの陸上部と思しき集団とすれ違う。先頭にはアフリカ系だろうか、黒人ランナー。振り返った時、その集団の一人の肩口には地元ではない大学名が見えたので、社会人・実業団チームなのだろうか?何にせよ、私の走りとは比ぶるべきもない走りを目にしたのであった。
3学期が終了。
終業式、離任式を経て、選抜大会の壮行会。
その後、HRを終えて教科書販売。
滞りなく仕事を済ませて、WBC。
夕方からは、英語科で離任される先生を囲んでご苦労さん会。
天気が悪くなる前に帰宅。
娘に良い友達が出来たようで、娘より妻の方が喜んで報告してくれた。よほど嬉しかったと見える。

福原麟太郎『人間・世間(暮しの手帳版)』(暮しの手帖社、1969年)読了。
装幀は花森安治。独特。
「外国語・英会話」から一節を引く。

  • 岡倉先生は、いつも私どもに、外国の文化がわかるというのは、こちらにそれだけの文化の土台があってその上に乗っかるからわかるので、爪立ちをし背伸びをしてとどくものではない。西洋の中世のことを知りたければ、日本の中世についてこちらに心得がなくてはだめだ、ということを何度でも口にして教えて下さいました。実際自分に経験があれば、ああ、これだなと、すぐ飲み込めるようなもので、わが身に覚えがなければいけない。それは国民の文化で申すと、国民が過去に、ある高さの文化を持っていないと、外国の文化と対等に交流できないという理屈になるわけです。(p.139)

この福原氏の「土台」ということばで、安井稔氏の和訳に関するコメントで用いられていた「踏み台」を思い出した。(過去ログ、http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060129 のコメント欄参照のこと。)
「学校の英語」よりの一節。

  • 教授法というのは、どうせ、英語をよく覚えさせて、よく身につけさせる方法なのですから相当の頭のある教師なら自分で考えます。何も、新教授法などと、新しがるには及びません。そして、よい教師が一生懸命教えれば、方法がどうであろうと、成績は上がってくるものです。そして、良い先生に習った人達が、良い英語を覚えているのです。(p.146)

これは、当時日本を席巻したチョムスキーの『朝日ジャーナル』でのインタビューを踏まえての記述。

「辞書の話」からも一節。

  • しかし、そう言っても英和や和英辞典が全く不用なのではありません。たとえば、「シャクナゲ」の花に当る英語を知ろうとするときは、和英にたよるよりほか仕方ないのです。同じように、いかに英英の解説がくわしくても、marigoldというのは日本語で「センジュギク」または「キンセンカ」というのだということを知るには英和辞典によるよりほかないのです。(p.245)

この部分は、AAO派閥の方たちによく考えておいて欲しいことがら。『英語青年』での拙稿にも共通するもの。
さて、
先日、九州大学や一橋大学など大学入試のライティング(英作文)の出題に対して予備校等で示される「解答例」について言及しました。ただ、予備校側へと要求をするばかりではなく、高校側も、いわゆる「英語教育」の側も、「どの程度の英語が書けることを求めているのか」という共通認識を持つ必要があると思います。
そこで、再現答案の収拾・分析・均し、ということをやってみようかと思い至りました。合格した生徒の再現答案を集めて均してみるという作業は、試験を行う大学側で、また、送り出す側でも優秀な生徒を多数抱えている進学校の進路指導・進学指導・受験対策の一環としては行われていても、「英語教育」プロパーの領域ではほとんどなされていないように思います。これをお読みの進学校の先生で生徒(受験生)のライティング再現答案の収拾にご協力頂ける方はメールをお送り下さいますようお願い申し上げます。今年度は無理という場合でも、次年度以降も継続して行いたいと考えていますので、何卒、ご協力の程宜しくお願い致します。この情報をもとに、受験対策教材を作って売ろうとか、協力してくれた先生方の勤務校での一括採択を目論むとか、そういう姑息なことは全く考えておりません。広く世間に公開し、生徒も教師も自由に無料でアクセスできるデータベースとできればと思います。「ライティング」という科目が消えてしまう高校英語において、今やっておくべきことの一つではないかと考えました。趣旨にご賛同頂ける方のメールをお待ちしております。

日付が変わろうかというあたりから、雷雨。久々に、轟いたという感じ。
本業では連休中に、大学チームのトレーニングの進捗状況を見に行く予定。
本日のBGM: Observatory (Glenn Tilbrook)