済んだ話

かつて、経済概況・景気動向を「文学的」な表現で語る経済企画庁(現内閣府)長官がいた。官僚から作家となり、大臣を経て今も言論活動・執筆活動などをしているのではないかと思う。公示済みの小中の指導要領と高校の指導要領(案)の文言を照らしていてこの大臣のことばを思い出した。
『英語教育』(大修館書店)の2月号の連載記事で、文科省で英語教育の政策立案にも関わる菅正隆氏が次のように述べている。

  • 小学校の「コミュニケーション能力の素地」、中学校の「コミュニケーション能力の基礎」、高等学校の「コミュニケーション能力」をそれぞれ養うことで、子どもたちのことばと心を育てようとするものである。(中略)日本語がいくら流暢でも、漢字を読めないのでは笑われてしまう。正しく英語を綴れたとしても、相手に的確に話せないのでは、自分の気持ちが伝わらない。英語教育は、子どもたちの「ことば」を育てるものであることを、再度、意識してもらいたい。(「英語教育ここだけの話。」(p.56)

詳しくは是非、同書にあたられたい。
申し訳ないが、このような舞台裏開陳、楽屋話のようなものを有り難いと思えないのだ。改定案を世に問う際に、改訂の趣旨も同時に世に示せば済むことではないか。
氏名肩書きのついた原稿であるから文責はあれども、文科省の示す公的な文書ではないところでいくらこのように言われても、

  • だったら「指導要領」の本文にその記述を含めるか、責任を持って公的な「解説」を同時にだせばいいだろうに…。

と思ってしまう。現場の英語教師も含めて、市民は「パブリックコメント」というコミュニケーションの手段でしか、「自分の気持ち」を伝えることができないのである。情報の送り手が「後出しじゃんけん」宜しく、このような補足を重ねることで適切なコミュニケーションが成立するのか懐疑的にならざるを得ない。

英授研の関東支部春季大会の案内が届いた。

4月5日(日)9:40〜17:00(受付は9:00〜)神奈川大学・横浜キャンパス(16号館セレストホール)
講 演(15:45〜16:55)
「新学習指導要領と小中高英語教育 コミュニケーション能力の素地と基礎をふまえた高校英語を中心に」
講 師: 菅 正隆(文部科学省初中育局教科調査官)
司 会: 久保野雅史(神奈川大学)


すでに公示も終わり、新年度の準備で大忙しの時期ではあるが、なんとしても直接話を聞きたいと思う。この春季大会のプログラムの中に、加藤京子先生の発表もあるので、神奈川まで行く価値はあると信ずる。詳しくは英授研サイトを参照されたし。(左のアンテナから入れます)

2月号の話しに戻ると、特集は「インプットからアウトプットへ」
再三言っているが私が最も期待する上智大の和泉伸一氏が「フォーカス・オン・フォームの指導」について述べている。(pp.28-30)。
肝心なところで結ばれていて悩ましい。
アウトプットの持つモニター機能を活かして「気づき」が仕掛けられている授業観への転換を果たした後、教材と授業の立案、限られた授業時数と年間の指導計画といった「シラバス」の中で、30人〜40人のそれぞれ異なるプロフィールを持った学習者の内面での「気づき」をどう育てていくのか?私の悩みはまさにそこにある。(過去ログ参照→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061123; http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061224; http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061230; http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070303; http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080207

  • 教え込まずに「気づき」を促せ

という提言に異論はない。
ただ、編集部への注文が一つ。それぞれの執筆者に書いてもらう内容が重複し(すぎ)ないように段取りをして、和泉先生には、29ページの図2について4ページくらいで解説してもらえなかったのだろうか?というのも、これに続く村野井仁氏の論考「インプットをアウトプットをつなぐ教科書中心の授業」(pp.31-33) にも、図2(p.33)として「第二言語習得の認知プロセスと英語指導」のしくみが示されているのである。
この2つの図の整合性をどのように保ちつつ F on Fの理論を「インプット」処理して、適切な理解を経て自らの血肉化し「インテイク」するのか、そこがよく分からないのである。

F on F 派に問いたいことは多々あるのであるが、

  • 「ストーリーリテリング」や「要約」や「ディクトグロス」はどのような現実の場面でのコミュニケーションなのか?

ということをもっと大きな声で言ってもらえないだろうか?私は自分の実践から、これらの「アウトプット活動」は、英語力を高めるのに極めて効果的であると信ずる。しかしながら、それらは決して「日常の言語使用」と同一ではない。学習(習得)にとって有効な手段であるからこそ、教室で、授業の中で時間を割いて行っているのである。指導要領が「コミュニケーション」一色になりそうな今だからこそ、最先端の研究者、実践者に期待する。

  • language awarenessが重要である。

そこまではいい。ただ、かつてKrashen や Swainなどに乗っかって「文法的能力 (= grammatical competence)」などを語っていた際に、日本の英語教育界は

  • 「正確である (accurate)」ことだけでなく「流暢である (fluent)」ことが大切だ

とか、

  • 「正しい (correct)」だけではなく、「適切である (appropriate)」ことが求められる

はたまた、

  • 「宣言的な知識」から「手続き的知識」へ

などと異なる学者の説く異なる次元の理論から次々と新しいことを輸入しては、その指導や成果を評価していたことを忘れていないだろうか?
今から5年後の英語教育界で

  • 「正しい」気づきと「適切な」気づき
  • 「宣言的」気づきと「手続き的」気づき

などを議論していないことを切に望む。

今日は大学入試センター試験初日。
心配された天気は雨のち晴。昨日の1限に教室でひと言伝えたので、特に会場に激励に行ったりはしない。
そろそろリスニングの終わる頃。
明日は明日の風が吹く。
風邪だけは引かないように。

自由堂さんの日記に触発され、

  • 前川清治『三枝博音と鎌倉アカデミア 学問と教育の理想を求めて』(中公新書、1996年)
  • 廣澤榮『わが青春の鎌倉アカデミア 戦後教育の一原点』(岩波同時代ライブラリー、1996年)

を読む。
『週刊東洋経済』の1/10号、特集「若者危機」を読んだ後だっただけに、学舎というものの存在をあれこれ考えていた。
『AERA』の1/12号の総力特集「100人の予言」で出てくる100人の顔ぶれを見てゲンナリ。世界不況を江副浩正に語らせたり、教育を榊原英資に語らせたりしてどうしようというのか?
注文してあった、HARQUAのアルバムが届く。明日18日にはライブがあるとか。東京近郊の人が羨ましくなるのはこんな時くらいだな。
妻と娘と一緒に夕食の買い出し。
今夜は牡蠣フライ。
ナポレオンかビスマルクか。
待つ間食卓で、

  • 久世光彦『百�*先生月を踏む』(朝日文庫、2009年;*は門の中に月)

とにらめっこ。
装幀がシンプルで配色も好感が持てた。
未完の作品でどうしようか悩んでいたのだが、そろそろ読み始めてもいいころか。

本日のBGM: A man is in love (The Waterboys)