♪誰かにとって特別だった君を♪

今日のエントリーは、邪気満載。授業の中身はスキップです。
昨日の記事で紹介した雑誌、『実践国語研究』だが、なぜこの雑誌の、この号を?と訝る向きには、次の連載に目を通すことをお薦めする。

「小学校の外国語活動(英語活動)」連載第4回 外国語活動究極の問答集 (pp.136-139)

この号で菅正隆教科調査官が興味深い原稿を寄せているのである。
「究極の」と題した自負からか、

  • 先生方には「説得ではなく、納得いただく」ことが大切なのである。

と上から目線とも取られかねない調子で始まっている。取り上げた質問事項は次の4つ。それぞれに菅氏自らが答えている。
Q1: なぜ、小学校に外国語活動を導入するのですか。
Q2: 外国語活動は誰が教えるのですか
Q3: 外国語活動は「英会話」ではないのですか
Q4: 1年生から4年生まではどのように考えればよいのでしょうか
A2の最後の部分。

  • では、外国語活動の趣旨から考えて、英語に堪能な日本人の地域人材は必要であろうか。担任の先生が、少々英語が苦手と考えて地域人材を活用することにより、授業内容が外国語活動の趣旨とは異なるスキル(技能)中心の授業になるのではないだろうか。この意味で、地域人材の活用は熟慮する必要があるだろう。

A3から。

  • スキル面を中心に授業を行っても、聞くことの音声面でのスキルの高まりはある程度期待できるが、実生活で使用する必要性が乏しい中で多くの表現を覚えたり、細かい文構造などに関する抽象的な概念を理解したりすることを通じて学習の興味・関心を持続することは、児童にとっては難しいと考える。(中略)指導内容のパターンプラクティスやダイアログの暗誦なども趣旨には適さず、中学校の外国語科で行うべきものである。同様にフォニックスも小学校で行う内容ではなく、中学校の学習指導要領にある「発音と綴りとを関連付けて指導すること」より、中学校の領域としている。

「おわりに」で菅氏は次のように述べている。

  • 注意したいことは、児童に過度の期待や過度の負担をかけないでいただきたいということである。

『英語教育』での連載よりある意味わかりやすい表現で語っているかもしれない。それはよくわかる。
では、期待や負担のかかるのはいったいどこなのか?
経営者や施策を司るトップの人たちは、洞察力に長け、決断が早く、器が大きいなどと言う人がいるのだが、次のことばは一般人にはどう響くだろうか。昨日紹介したもう一冊の本から引く。(『21年度から取り組む小学校英語 全面実施までにこれだけは』、教育開発研究所)

  • 日本では、基本的に、ティーム・ティーチングが小学校英語の教育体制として考えられている。とくにALTなど、外国人教師の役割を重視している。しかし現状では、ALTの数はとても十分とは言えない。各教育委員会が独自に採用している場合も、財政的に見て、非常に厳しい状況にあるため、近年は入札で外国人教員の派遣会社に委託する例が増えている。しかし、現在、教育派遣会社の雇用条件の悪化など、いろいろな問題が表面化しており、よい外国人教員を確保することは非常に難しい。したがって、ALT以外にも、日本人で英語ができる人の活用が非常に大切になってきている。/ようやく日本でも小学校英語が本格的に始まることになった。それが本当に成功するためには、いろいろな問題が山積しているが、それらを一つひとつ解決していく努力が必要なのである。(吉田研作「小学校の外国語(英語)活動の基本的考え方」、p.16、教育開発研究所)

誰が教えるか、という問題に関して先ほどの、菅氏の言とは真っ向からぶつかりはしまいか?
それでいて、「問題は一つひとつ解決する」べく努力せよ、と。
専門家の1人、松香洋子氏は言う。

  • やったことを振り返り、次の活動へ生かすという場面がやってくる。このようなことをしっかりと見届けることができるのも学級担任しかいないのである。カリキュラムや授業内容が子どもたちの成長や、興味・関心に合致していたか、そして子どもはこの活動を通して何を学んでいるのか、学級担任にしっかりと見届けてもらいたい。一度やったことの記録を簡単でもよいから残し、それを次年度に生かすこということも学級担任だけが見届けられることである。外部講師は来る、そして外部講師は去る、のである。そこに居続ける学級担任しかもてない視点がある。(「担任主導のメリットを理解しよう」、同書、p.30)
  • ここがポイント!1. 5・6年生の学級を運営できる人。子どもと信頼関係が樹立できる人。2. 5・6年生に対して、きちんと目標設定ができる人。3. 子どもの発想を尊重し、それを伸ばすという発想ができる人。4. 子どもが必要とする外国語や英語の表現を理解しようとできる人。 5. 忙しい高学年の授業のなかに、国際理解教育の柱を立てられる人。(「5・6年の学級担任を決めるときにはどのような配慮をすべきか考えよう」、同書、pp.37-38)

NPO教育支援協会代表理事の吉田博彦氏は言う。

  • 「地域人材」というものの内容もよく吟味しておく必要がある。2008年4月段階でJ-SHINEに登録されている地域人材は1万5、000人を超えているが、その中には常勤での雇用を希望する方や時間に融通がきく非常勤を希望される方もいる。とくに自分で英語教室を開いている「地域人材」の方は非常勤を希望される方が多く、そういう人はかなり指導力や英語力のある方であることが多い(「日本人指導者の募集・決定」、同書p.123)

聖学院大学講師の東仁美氏は言う。

  • 担任が英語活動の授業をする際に不安を感じる第一の理由は、自身の英語力不足であろう。時間的に余裕がある長期休業中に英語を勉強する習慣をつけたいものである。音声教材が利用できるもので英語のレベルとしては中学校3年間の学習内容で十分である。手ごろな教材としては、NHKラジオ基礎英語のテキストや中学校英語科の教科書などがあげられる。どちらもCD教材があるので、声を出しながら、英文を読む練習を続けると英語活動の中で使う、クラスルーム・イングリッシュに自信がついてくる。(中略)教科書の音読をする場合、シャドーイングの手法を取り入れると効果的である。(「長期休業中の研修」、同書 pp.144-145)

ここまで批評せず引用してきたのだが、どうにも我慢が出来なくなった。
最後に引いた東氏は、長期休業中に担任教師が行うこととして更に次の項目をあげている。(pp.146-147)
「集中的な教材開発・作成」「教育委員会主催の研修」「その他の研修」「外国の生活・習慣・行事を体験」。その中から二三引用する。

  • 自費となるが、民間でも質の高い研修が全国各地で開催されているので、英語教育関連の掲示欄や出版社のページの研修情報などをこまめにチェックするといいだろう。
  • 筆者は、大学での授業で、アメリカ東海岸を旅行するテキストを使用したことがあったが、テキストの中で紹介される東海岸の都市を事前に訪問し、旅行パンフレット類などを教材用に収集してきた。
  • また、海外の生活を体験しながら、児童英語教育の集中講座を受講するというプログラムもお薦めである。オーストラリアなどは、児童英語教育の短期プログラムが充実している。夏休み期間中に担任が冬のオーストラリアで撮った記念写真は、クラスの児童にとって、南半球の気候の違いを学ぶ絶好の教材となるだろう。

菅氏のことばを思い出して欲しい。

注意したいことは、児童に過度の期待や過度の負担をかけないでいただきたいということである。

では、担任にどれだけ過度の期待をして、過度の負担をかけようというのか。教育委員会が責任を持つのではなく、担任教師が自腹を切ってまで研修を受けなければできないような授業とはそもそもどんなものなのか?
さらには、教員免許更新制の導入に伴い、免許更新のための研修が始まる(予備講習はすでに始まった)。外国語活動は5,6年生に携わらなければそれで済むが、免許更新講習の該当者は、それに加えて英語の指導者研修も受けるのか?いつ?大学等、英語の免許更新講習ができる受け皿の確保さえままならない地域が多いのではないか?そもそも新しい時代の教育を担うのに、古い教師が役に立たないと困るから教員免許の期限を定め、更新を義務としたのであろう。では、今まで誰もやってこなかった「外国語活動」を担うこれまでの小学校教員は、免許更新制度の例外措置とすればいいだろう。
小学校の学級担任として、「外国語活動で使う写真を撮るため」長期休業中に海外旅行をする余裕のある人がいたら私に会わせて欲しい。私が高校のクラスで使う写真も一緒に撮ってきてもらえるようお願いしてみるから。
もし、私が文科省のトップで次のような施策を決定したらきっと各方面から不満の声が上がることだろう。

  • 全面実施までの3カ年だけでなく、数カ年をかけて小学校の担任の専任教諭には順番で海外での外国語指導の研修を受けてもらう。その費用は政策を掲げた国が責任を持って負担する。その間の教科指導に関わる代替教員は教育委員会の責任で各自治体の予算から非常勤講師雇用を増員することで対応する。教科に関わらない校務は地域の教師OBの人材を活用する。研修を終えて外国語活動が担当できる教員が配備されるまでは、教師の代わりとなるDVDなどの教材を用いるか、地域の英語教員養成に関わっている大学教員がチームを組み定期的に出向して代替する。小学校での外国語活動に対して、積極的な意義を認めず、それに取って代わるより優れた教育政策を掲げるという自治体は、「外国語活動例外特区」を申請し認可を受けることで、外国語活動ではなく、独自の教育活動にあたることを許される。

書いている私でさえ、非現実的な話だと思う。
では、全面実施まで3年と迫った現在の状況はこれよりも整備されていると言えるのだろうか?

この本の表紙にはこうある。

  • 第一線の専門家が「英語ノート」をベースに解説

外国語教育の専門家がリードするのではなく、小学校教育の専門家の声を、小学校英語を推進する人たちが謙虚に聞くことが先決だろう。
情報を共有しようという時に、このブログで私が書いているようなエントリーを、小学校の先生方が眼にすることはまずないだろう。では、私から出向いていくか?今でさえ、自分のクラス、自分の学校、地元に根ざした英語教育の研究会、高校のライティング指導の普及、そして私の最大のミッションである2011年の国体と、文字通り手一杯なのに、それに加えて小学校外国語活動にまで…。

カレルチャペックは言った。(「二つの慣用語」、『カレル・チャペックの警告』、pp.152-155(青土社))

  • しかし、誰かがそれをするべきなのである。その反対に「私がこれをするべきである」「私が大きなそして決定的な何かをなすべきである」とはほとんど誰もが絶対に言わない。同様に「ここに座っている私たちが自らこういうこと、または、ああいうことを解決すべきである。いかがです、私たちはそれを始めましょうか?」という言い方もまれにしか聞かれない。人間の空想や知恵は誰かが何かを引き受けるべき課題を発見する点ではまさに無尽蔵だと言える。その反対に、私たちが何かをなしうるとか、私たち自身が何を目指して努力すべきかという問題になると驚くほど貧困なのである。」
  • 過去一千年間に起こった有益なあるいは重要な事件のほとんどすべては、それほど単純ではなかったのである。もし人間が問題を「それらが単純ではない」からという、ただそれだけの理由で実行不可能と断定するなら、この世には人間の営為の贈物といわれるものはほとんど存在しなかっただろう。/ここから出てくる結論は、必要なものすべてを実行することを誰かが自分で引き受けなければならないということ、そして問題はそんなに単純ではないと考えないこと、以上である。

このことばが発せられてもう70年が過ぎている。

本日のBGM: ドアをノックするのは誰だ?(小沢健二)