「王様は裸だ」あるいは「王様の耳は驢馬の耳」

高校・大学という上級学校への進学という限られた物差しで「進路実現」を語る時、多くの公立高校では、「公立中出身者の英語を補強するために授業時数を増やすと、理数系の単位に皺寄せが行ってしまい、センター試験で総合点が伸びない」とか、「二次試験の物化生が間に合わないので、英語を3年で減らして時数を増やしたいが、医歯薬系などでは専門領域の英文が容赦なく課されるので、むしろ英語ももっと強化したいのに…」など、国公立や医歯薬系の進学実績を死守するためのジレンマに悩まされたのではないでしょうか?私も30代前半で、公立校のカリキュラム検討委員長をやりましたが、各教科の ”強化” エゴを収拾するのに疲弊しました。
公立のトップ校が巻き返しを図った、などとメディアで取り上げられることは多いのですが、多くのトップ校はSELHiではなく、SSHを選ぶなど、理数系の強化を実現させています(私の言動を見て頂いた人にはおわかりかと思いますが、これまでの全国のSELHi校の実践と成果、それに伴う努力・苦労は十分に理解しているつもりです)。
その反面、今まで以上に落ち込んでいった2番手、3番手以降の公立高校の実態はほとんど表には出て来ません。そういった学校が「進学実績」を上げようという時、「英語」に白羽の矢が立つことが多いのではないでしょうか?そしてその場合には、「実践的コミュニケーション能力」の伸張とか、「英語が使える日本人」になるためのカリキュラム、シラバスというよりは、受験に特化した講座を置き、予備校の講師を招いて、または教師を予備校に派遣して研修を受けさせるというようなことが、行われているのが実態なのではないでしょうか。
そういった学校現場の実態を鑑みた時、「役に立つ英語」というものは教師の置かれた、生徒の置かれた環境、状況で唯一絶対のものとは成り得ません。
ですから、自前の考察であり、同僚とのコラボであり、目の前の生徒の理解が何より優先されるのだと思います。自前の考察を進めていくためには自分の信念を揺すぶることが不可欠です。相反する師、role modelsの間で揺れ動くことも必然でしょう。
健全な批評は仲間内の甘言ではなく、批判的、否定的な言動の中に、さらには、リーダーに対する諫言にこそあるとさえ言えるのではないでしょうか?
いよいよ、慶應シンポです。
このシンポジウム、一部では「小学校英語教育導入反対派の総決起集会」というような受け取られ方をしているようですが、登壇者のこれまでの言動を見ればわかるように、「戦略構想を超えて」という部分こそが主眼です。私個人の理解では、「英語教育の明日は英語教育界こそが切り開いていく責任と覚悟を!」ということです。「小学校英語」がマイナーな案件だというのではありません。年配の英語教師の方は覚えているかと思いますが、「中学校週3」が政策として実施された時、英語教師たちはどう動いたのでしょうか?中学校での英語教育の当事者である中学教師だけではなく、その「週3」世代を引き受ける高校の英語教師はどのように状況の改善に尽力したでしょうか?では、「週3」で英語力を育てるという大役を担う教師を養成する「教職」を担当する大学の先生たちは?
歴史に学ぶとは、そういうことをしっかりと自分のDNAとして受け継ぐことだと思います。
指導要領の改訂でさえ、現場という海は大揺れに揺れます。戦略構想とプランの実現の具体的施策、そして、新指導要領がまだ実施されないうちの、再生懇の提言となれば、混乱・混迷は必死です。
そういった状況を見据えて、異論反論もあるからこそ、議論することが肝要なのだと思います。
英語教育の話は、雑誌『英語教育』(大修館書店)や、『新英語教育』(三友社出版)の中だけにあるのではありません。そのような英語教育メディアで発言する人たちだけが担っているわけでもありません。
このような大きなシンポジウムを予定調和、大団円で終わらせてはならないと思います。
参加できない私が言うのも説得力に欠けますが、一人でも多くの人が今回のシンポに参加されることを望みます。(詳細はこちらから→http://oyukio.blogspot.com/2008/08/blog-post_18.html)

本日のBGM: Family Affair (Sly & The Family Stone)