夏の終わりに串田孫一

前任校ではいわゆる英語圏からの帰国子女が多く在籍するクラスを担当していた。ライティング課題で読む資料とか、ディスカッションで各担当チームに割り当てる資料の英文はオーセンティックなものがほとんどであったので、教室で次のセリフを良く吐いていたのを覚えている。

  • 君たちは、ピャーッと読んで、ピャーッと理解するのは得意なんだから、英語で書かれた意味を読むだけではなく、英語のことばそのものを読みなさい。

TOEICで私と変わらないか、高いスコアを持つ者が多くいたのだが、それでも読みの甘さはいつも気になっていた。ライティングの授業で『表現ノート』という課題にこだわったのも、読みを豊かなものにしたいという思いがあればこそ。

過去ログにも貼り付けたことがあるが、私は教材研究の際に、文章の初めからノートに書き写していく(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080618)。高1レベルの素材文から、入試問題では難関大の長文まで。入試で超長文とはいっても、一題で考えれば1800〜2000語くらいなので、教科書の長い1レッスン分程度。(Z会のTreasureであれば高学年では、レッスン1でいきなり2300語くらいだったからそれに比べれば少ない方である。)
以前は、ワークシートやハンドアウト作成のために、ワープロに打っていたのだが、今では、ほぼ全ての採択教材にテキストファイルがついているため、ワークシートなどの二次使用にはこのような周辺教材を使えばよくなったので、教材研究では、「筆者の思考の足跡をなぞる」というこの「手」法を取っている。
ただ、一見極めて効率の悪いこの手法にも利点がある。文章を書き写し終わった時点で、設問などが与えられていなくとも、その文章の山(あるいは谷)が見えるということだ。
今風の読解で、

  • パラグラフリーディングで筆者の主題を踏まえて、難しいところは精読を、内容の予測がつくところは端折って「全体として筆者の言わんとするところを鷲づかみにする」

というのは聞こえはいいが、文章を綴る側から言うならば、筆者は決して「端折って」書いてはいないし、「鷲づかみ」に書いているわけではない。統一した主題が既に筆者の頭にあり、アウトラインが出来ているとしても、必ず一語ずつ、一文ずつ書き進めるものだろう。
教員に成り立ての頃は、マグロの解体ショーよろしく、鮮やかな手さばきであっという間に読解問題を片づけるということに快感を覚えていたが、普通の学習者はその解体されたマグロを食べなければいけないのである。まさか、マグロも鰯のように頭から丸かじりする、というわけにはいくまい。いや、でも、グルメを自称する人たちは、超一流の腕を持った職人に捌いてもらったマグロから、「じゃあ、この僅かしか獲れない『カマトロ』の部分だけ味わいましょう」などという食べ方で満足なのかもしれない。
読解とか聴解ということを単純化して喩えれば、

  • 色々な種類の魚を自分で捌いて自分で食べて自分の血肉化する

という練習の場が教室なのだと思う。
読みの教材研究の話しに戻ると、自分がこれまでに読みためた話型の中から、相似形を拾い出して、自分に引き寄せて読むのではなくて、筆者はなぜここでこの表現を使ったのか、もしパラフレーズするとしたら、ここではどんな表現が考えられるか、それを踏まえて、筆者の用いたこの表現の妥当性・効果はなどと、書き写しながらも頭はぐるぐる回る。筆者はなぜここでこの具体例を、この時点で、どんな反論を予想しているのか、というまどろっこしい作業を積み重ねる。当然、「いや、筆者もここでは、そんなに深く考えていなかったんじゃないか?」、「ここはどう考えても論理が繋がらないでしょ」とか、「ここは筆の勢いだけで持って行っているなぁ」などというところは出てくる。それでもなお、この一文ずつ書き写す教材研究をしてからの方が、私の読みは精密で正確、かつ速くなったのを実感する。
「木を見て森を見ないの愚」という喩えはよく使われるのだが、「木を見る」ことをbottom-up処理、「森を見る」ことをtop-down処理と単純に考えているのだとしたら、リーディング理論としても、言葉の比喩の解釈としても二重に過ちを犯していることになる。
問題は、木を見ることにあるのではなく、個々の木を見てきたにもかかわらず、そこから森を描けないことにあるのであり、森を描けていない以上、個々の木を見てきたその方法が貧弱、お粗末であったということである。森を見ようにも、我々は鳥にはなれない。木々の間を潜り抜けることで、その森を描くのである。
今、目の前に鬱蒼と茂った森へと続く小径に立つ時、旅人に出来ることは鳥瞰図のように森を見ることではなく、小径をゆっくりと進みながら、遠くの物音で姿の見えぬ獣に怯えつつも、木々の作り出す景色を楽しみ、マイナスイオンを浴び、時には路を外れて草花の色や臭い、鳥や虫の声に五感をくすぐらせ、心軽やかに足取りが速まるとともに森を抜け、最後は名残を惜しむようにゆっくりと小径を踏みしめて、その森をあとにすることだろうと思う。
その森が旅人のそれまでの経験では抜けられそうもないものだとしたら、熟達した路先案内人がつけばいいだけのことである。
ここまで書いてきて、なんだか、串田孫一が読みたくなってきたなぁ。

明日は二学期始業式。もっとも夏も課外や勉強合宿があったので、授業のブランクはあまり感じないが、行事の多い学期なので、最初が肝心。

本日のBGM: If a tree falls (Bruce Cockburn)