No の迷宮、あるいは点と領域

注:今日のエントリーは冗長なので、一昨日の内容に興味のない方はスルーして下さい。
昨日は変則45分短縮授業。
高2の最初のコマは10分単位で、『P単』のドリル。音源をかけながら会話必須表現の解説を4カテゴリー分加えて、その範囲で10分間個人作業。音読するもよし、視写・暗写するもよし、辞書で語法をさらに調べるもよし、対話練習に仕立てるもよし。
2コマ目は、教科書会社提供の予習ノートで語彙・構文の下調べ、これも個人作業。授業の準備として何が必要なのかを自覚してもらう。音源は一人一人手元にあるのだから、「自分は何をして授業に臨むのか、自分は授業に何を望むのか」、ということである。
高3は読解がメイン。andが何と何を結んでいるのか、並列の処理の徹底。半分読み込んだところで各自で音読。ペアのパラレリズムをしっかりと把握することでandに続く語句で前置詞+名詞や副詞などの修飾語句がandを超えてペアの両方を修飾するのか、それともandを超えられないのかを確認。
高1オーラルは7限に時間割変更となったので、Stevieの歌詞カードの音読。背中合わせ一人一行読みで練習の必要なところを見つけておき、個人練習のあと、全体練習。その後、対面リピートを経て合唱。
残り時間はフォニクス。日本語の長音記号が定着しているカタカナ語などを含めて、短母音と二重母音を扱う。toneで「ト音記号」の話を自分がしたのに気づいたときは、ちょっと身震いした。外語の血か。
空き時間を使って生徒の日誌に目を通し、生活や学習で気になる部分には赤線を引く。一人一人日誌のスタイルも違うので、統一した方がチェックはしやすいのだろうが、毎日一人一人が日誌を書いて提出し、その一人一人の日誌を担任がちゃんと読む、ということ自体に意味があるのだろう。中間試験を経て変化が生まれているものもいれば、そうでないものも。「人生いろいろ、人それぞれ」を最後につければ、その文章が公的なものか私的なものかが見極められると説いたのは井上ひさしだったか。「それもまた個性」などと安易な個性の容認に流れては不味いだろう。ただ「自分探し」をしているうちは何も解決しない。
昼から天気が崩れ、放課後も風雨が強かったので、湖行きは止め、学校でエルゴ1000m6発で終了。
地元で行う英語イベントの打ち合わせ。いよいよ細部の詰めに入る段階。なんとしても成功させたい。
保護者懇談会で使う個人資料を印刷してから帰宅。
翌朝は雨も落ち着き、短縮40分で午前授業。1限のLHRでは、「読書ノート:私のアンソロジー」のシェアリングから。授業は高1のオーラルと高2英語IIの個人作業。全然進めないなぁ。
いわゆるPTAの総会に続いて、出席した保護者とクラス懇談会。概況を伝え、学級文庫を紹介し、中間試験の結果個人票をお渡し。学習室の状況が見たいということで案内。何人か生徒も残っていた。
放課後のクラブはなし。職員室に戻るとロースーが届いていた。無理を言って特急で仕上げてもらったMさんありがとう。このユニフォームに恥じないレースをさせます。

英文法の全ての項目を「ハートで」感じられれば楽なのだろうが、なかなかそうも行かないことが多い。
ある項目を一律に論じられる原理原則があるのかなぁと思い、超メジャーな某所で質問してみた。回答はして頂いたのだが、今ひとつ要領を得られなかった。質問の意図が充分伝わらなかったか?いや、私の訊き方が不味かったのでしょうね。
ということで今日は主として否定の側面から考察をば。noは何を否定するのか?というところまで迷い道くねくね…。
回答を読んでみての考察。まず、

  • (noは)二重の意味ではない。

ここが食い違いなのだろうなきっと。私の質問は、「意味」ではなく、否定の作用域(スコープ)に関して。つまり、文否定と語否定ということを考えるとき、語否定でもあり文否定でもあるという二重の「働き」が可能なのか?可能だとすれば、それを実証している理論やno more … than以外の比較級での例を見せて欲しかった、というもの。ゆえに、no sooner / than を持ち出した次第。
回答を要約するに、

  • noが持っている性格からいってHe is not a teacher.とHe is no teacher.とは全く違う。

この例では全く違うのは当然、これくらいは私にも分かります。でも、私が問うているのは比較級の前のnoの「働き」の方。

  • <no more〜than>と<no sooner〜 than>では概念が違う。

というのだが、不勉強な私には、これが全く違う概念だということが全くもって分かりませんでした。受験で言う比較「構文」かどうかはどうでもいいのです。<否定のno +比較級 than>に共通する「シンプルな」原理原則を示してくれていたのなら、すごいことだぞ、とばかり思っていたのに、ここでも食い違い。
than以下に、比較級で用いている形容詞とは明らかにかけ離れたものを基準として設定するという考え方ではなく、あくまでもnoの性格(?)というか機能でのみ、この <no + 比較級>を説明する良い考え方などあるのだろうか?
などということをつらつらと考えていたら、夕方7時からは寮の当番でした。
寮の寮監室に資料を持ち込み久々にお勉強。
日本の教室で話題になる文法語法で私が頻繁に繙く『例解現代英文法事典』(大修館、1987年)では、今ひとつピンポイントでnoの機能を解説する項目がヒットせず。もっと、学習者目線のもので調べる方向へ。
noはbe動詞の補語になっている名詞につく場合「〜どころではない、〜の反対だ」という意味になると説くのは、木村明著『英文法精解』(改訂版、培風館、1967年)。そのこころは「その名詞を強く否定し not 〜 at all の意味となる」から。
以下英文のみ抜粋。

  • This is no place for you ladies.
  • It is no use trying to open it now.
  • I am no philosopher.
  • It is no wonder that he should fail.
  • It is no small matter.

そんな古いのはダメだよ、という人には水光雅則編著『ランドマーク』(啓林館、1994年)から。
「単純に否定するnotを使うか、強く逆のことを言うno を使うかで意味合いが異なる」とある。そこでの説明を整理すると、I’m better. (私は気分がよくなった)の文全体を否定して「(気分がよくなった)ということはない」というだけなら単純に notを使い、betterだけを強く否定して、「少しもましでない→あいかわらずひどい」と逆のことを言うなら、noを使う、ということのようだ。
このnoの働きは同書では、「否定」の項で説明されている。

  • Barnaby is no fool.
  • Shelia gave me no ordinary answer.

ここでのnoは、

  • すぐ後ろの語を単純に否定するだけでなく、「その逆だ」とまで言うnoである。

とされている。この2例のパラフレーズとしては、

  • He’s wise.
  • She gave me an excellent answer.

を示している。
似たような捉え方を示しているのは、薬袋善郎著『学校で教えてくれない英文法』(研究社、2003年)。pp.21-23で、<no+形容詞+名詞>の2つの読み方、を扱っている。(ちなみに、pp.122-124では<no+比較級+名詞+than〜>の見落としがちな注意点を扱っている。良書である。)
もっとも、高校生用の学習参考書を読んで教材研究しているようではたかが知れているので、困ったときの江川頼み。
江川泰一郎『英文法解説』(改訂三版、金子書房、1991年)を引く。ようやく突破口が見えてきた感じ。
江川はnoの注意すべき用法を3つに分類し、1. He is no fool. 型、2. That’s no easy task. 型、3. 比較級の否定語として比較の概念を強く否定する型、としている。1.や2.はどうでもよい。結局、noという否定のカードをどこで一回使うかなのだから。否定のカードを切ることで、形容詞の価値観・判断・評価をひっくり返すとでも解釈すれば説明はつく。問題は、この 3.をどう捉えるか、なのだ、江川の示す1. 2. はそれぞれ水光の示した例に該当すると考えてよいだろう。問題の3.で、江川の示すのは以下の用例。英語のみを引く。

  • His French is no better than (= almost as bad as) mine.
  • We walked up no further than (= as far as) the suspension bridge.
  • Are you really fifty? You look no older than forty.

この解説の注記が今ひとつよく分からない。否定の作用域に関してのコメントと思われるのだが、

  • ただ、大事な点は文否定、でありながら、noは次にくる名詞・形容詞・比較級の表す概念を強く否定し、反対の意味の効果を高める(一種の反語的な)役割を果たしていることである。

ここで江川氏が上げている参考文献のZandvoortの説明は3.の項目には当てはまらないだろう。「比較級の概念」を強く否定する、とはいかなるものか、をこそ丁寧に論じてくれていれば、というのは愚者の無いものねだりか。
文否定でカードを一回使ったのに、比較級の概念の否定にも使える別のカードを持っているとは考えにくい。でも、そう考えない限り、than以下の基準に対する価値判断を留保することは出来ないだろう。従来からの多くの教師・学者・研究者が、than以下の基準に対する価値判断を取り入れることで、このnoの機能を「差」を否定することの一点に絞って説明してこられたのであろうと思う。

  • a) Tom has no more than five books.

という文でのnoの働きを、山川喜久男氏は次のように説明している。誤解を避けるためなので、長文の引用をご容赦願いたい。

  • まずa)におけるnoはすぐあとにある比較級のmoreを打ち消す副詞です。このようなnoの用法は、The sick man is no better. (病人は少しも快くなってない)/He went no farther. (彼はそれ以上遠くへは行かなかった)などに見られるもので、比較級の表す程度の高さを全面的に打ち消し、けっきょく基準として考えられる程度と全然変わりがないという意味を強調するのに用いられています。この場合、基準となるものが a)におけるようにthan 以下で表現されることがあります。a)では基準となるものが、five (books) という数であり、no more than five で「5よりも少しも多くない」つまり「ちょうど5」(= just five)の意味を表します。(『クエスチョン・ボックス シリーズ XII 話法・語順・否定』(大修館、1962年、p.111)

基準としてあげた数の「5」を少ないと評価することで、noの働きは「差」がゼロであることのみを表す単純な原理原則から外れずに済むわけである。
総じて比較という「概念」は、数量に置き換えて考えれば

  • i. ある数量よりも多い・大きい
  • ii. ある数量と全く同じ
  • iii. ある数量よりも少ない・小さい

の3通りに分類することと言えるだろう。そして、英語の「比較級」というものは、i. かiii.を論じるために存在する形式と言ってよかろう。そうであるならば、「比較級の概念」を否定するということは、i.でもiii.でもなく、ii.が残る、と考えるのが原理原則を単純に考えるということになりはしないか。プラスの含意がある、moreなどの比較級を用いるi. の比較をnoが否定すれば、その優等性そのものを否定するということであるから、「比べて優ということはまったくない」となるだけなのではないか。「何において優であるのか」という前提を否定してしまったり、その表す意味を反転させたりするのは事柄をより複雑に解釈しているような気がしてならない。ただ、この辺りの理論的根拠がハッキリしていないので、昔から諸説まかり通る、という感じなのではないかという気もする。
古いもので恐縮だが、この項に関する私の基本的認識は宮田幸一『教壇の英文法』(初版、研究社、1961年)にある。そこでは、118. no more thanとnot more than (pp.275-276) 、119. A whale is no more a fish … (pp.277-279) で非常に丁寧に扱われている。ただ、類書と異なり、宮田らしさがよく出ているのは、その前に、115. more than ten years (pp.269-272), 116. more than one writer (pp.272-273), 117. more than ---日本語の ”以上” と比較して--- (pp.273-275) などの項目で、数量表現について、more thanと以上がどう違うかという基本的な事柄から説き起こし、地に足のついたレベルできちんと日英語の(論理とことばの)相違を論じているところである。
同書、pp.275-276より例を引く。宮田は、

  • (a) much more than ten
  • (b) a little more than ten
  • (c) no more than ten

の3つを示し、

  • (c)の場合は、(a)および(b)の場合から類推すれば、分かりやすいでしょう。noは、やはり、moreを修飾する副詞的な語で、全体で10を超過する分がゼロであることを意味します。すなわち、”10よりゼロだけ多くの”というのが、このno more than tenの基礎的な意味なのです。ご参考までに、この (a), (b), (c) という三つの言い方の表していることを図で示してみると、次のようになります。

冷静にあっさりと、しかしながら直感的に分かるように解説されていて、「宮田節」と形容されたのも頷けるものである。
江川の言う「比較級の概念」というものは、宮田が示した図によく現れている。形容詞は比較級の形をとることで、「差」にあたる部分、つまり超過分(あるいは不足分)にスポットライトを当てることになるわけである。とすれば、その比較級を否定するnoは「差」の部分に対してのみ機能すると考えるのが妥当なのではないか。確かに、江川の言う「反語的」、水光の言う「その逆だ」という感覚は残存しているように感じられるが、それは宮田の言うように「ゼロだけ多くの」と言われたときにそれを「多い」とは感じられない、その逆の「ゼロだけ少なく」と言われたときにそれを「少ない」とは感じられないということではないのだろうか?
ちなみに私は自分の授業では、この<no+比較級+than>の項目では、数直線での領域を援用して説明している。まずは肯定文を示して●か○かを確認し領域を示すことから。続いて、notの否定は残りの領域全て、を確認。ではnoは?という迫り方。あとは実例に語らせるという感じです。
9時を過ぎ、宿直と引き継ぎ、寮を後にして帰宅。
いつも訪れるブログやサイトを巡回。
「学問無宿…」の自由堂さんに取り上げてもらたったのだけれど、昨日の記事の方はグサリと来たなぁ。
このブログにもコメントを寄せてくれる方たちがいます。
「直言」「歯に衣着せぬ言」が信条のこのブログです。仲間内でのヨイショや馴れ合いにならないよう、建設的な批判、疑義を今以上にお寄せ下さい。礼(と書いて「ぺこり」と読む)。


本日のBGM: Thing called love (John Hiatt)