成功が約束されているのなら、それを努力とは呼ばない方がいい

今年も三大紙系週刊誌で大学合格者ランキングのようなものが出回っている。
今春の受験生はこれを見ても一喜一憂のしようがないだろうが、学校関係者にとっては自分の学校の「格付け」に使われてしまうので落ち着かない特集なのだろう。
このような「風土」を放置しておきながら、一頃ニュースでも取り上げられた、学校としての履修科目設定の不備や、センター利用合格者増産というミッションステートメントにだけ目くじらを立てるのはどうかしている。それが校是であり、生徒のためになるのであれば胸を張ればよいのだ。
さて、
私はコンビニでも売られているような「成功することが人生の是である」と説くようなビジネス書や「幸福論」のような啓蒙書の類を忌避している。「だからお前は成功しないのだ」、とか、「だからお前は幸福になれないのだ」という批判は甘受します。「やること全部裏目に出た」というような、はずれくじを引きまくるの私の人生は、「成功」とはほど遠いし、人と比べてみると幸せはかなり足りないと思いますから。
最近になって、自分にとってこの類の書物の何がイヤなのか?を考えてみた。
私が距離を置きたいと思っているこれらの本の根底には、「人間の弱さ」「陰鬱さ」「負の感情」などは全て唾棄すべき、蔑むべきものとして捉えるメンタリティが通じている。

  • 現在の努力は自分の将来に対する投資だから、惜しんではならない。

などと謳う人の多くは、「経済」「金融」「投資」という比喩で人生の目的や人間活動の価値を捉えている。そこまではいいだろう。しかし、「投資は須くプラスの配当をもたらす」と考えるのであれば、そこには誤謬があろう。
こと「お勉強」や「お受験」を考えた時、我々の思考は、「投資」の比喩ではなく「ギャンブル」という比喩を用いた方が適切なのでは?くらいに考えておけばその成果をことさら誇ることもなくて済むし、その成果に必要以上に清廉さを求めずに済むのではないか。
コクトーではないが、成功が約束されているなら、それはもう青少年のすべき努力ではないのだ。
本業の合宿から帰ってきて、携帯の買い換え。機器代金と料金のしくみがわかりにくい。
原稿書きの資料を読む合間に新年度の進学クラス英語に関わる指導計画の策定にしばし悩む。
新年度の進学クラス1,2年生はほぼ私がメインで担当することになった。学校としてのニーズとか思惑とかいろいろあるだろうけれど、英語の力をつけ、自分の言葉を豊かにするために、藻掻く生徒と共に学びたいと思う。

本日のBGM: うしろむきでOK! (TOMOVSKY)