実作

授業は高1のみ。
普通科は、前時の復習から。問題演習の解答となる例文を板書し、どういう考え方でこの答えの英文になったか、ノートに写したはずの前回の板書を参照させる。この作業を厭わせないことが、学習集団つくりの根幹かも知れない。下位者への手当よりも上位者への意識付けが集団を下支えするのだろう。これができるクラスは授業が積み重なるから。別なクラスで、どうにも空疎な言葉が雲散霧消する集団では、ここができなかった。反省。
授業は語句の解説から、起立して音読個人練習の後、コーラスでリピート。ペアを作り、一人は黒板に背中を向け、もう一人が対面。板書の英文をランダムに読み上げ、ペアが対面リピート。終わったら立ち位置交代で同じ対面リピート。自分の席に戻って、読み上げ役、リピート役で感じた苦手な箇所をノートまたは教科書で1分間集中練習。その1分の間に、黒板のキーワードを消し、空所に。顔を上げたら、虫喰いの英文が目の前に。1分間で最後まで読み上げられるかチャレンジ。教室の音読音声の滞りを聞き分け、再度全体でコーラスリピートする。最後は、スラスラ言えるけど、書くのが大変そうな語句を縦書き練習。
進学クラスは午前午後2コマを使って、仮定法の原理原則導入と問題演習終了。問題が解けない生徒は決まって、それまでにやった箇所を見ずに、自分の力試しをしようとする。分からない問題の空所だけをじっとみている。時間が流れる。ただじっと空所を見ている。これでは石川啄木にもなれない。
それまでに自分が理解した事項を全て目の前に拡げて新しい課題と取り組み、どこへ戻るのか、どこからツールを引っ張ってくるのかを繰り返し繰り返し、自分のスキルへと高めていく。指導の順序の問題ではないのではないか。仮定法をやってみてわからないことがあるから、助動詞へ戻る。時制に戻る。という地道な「365歩のマーチ」をやらないと、「文法体系」などと教師がいくらいってもご利益はない。
問題のどこを見るのか、それまでにやったどんな事項との接点を見出すのか。「気づき」というと簡単なことばに聞こえるが、授業で身につけさせなければいけない、この「着眼点」は難物である。そのためには「足場」「土台」の広さ、高さ、固さも必要なのだから。ここを授業で保証できないと、ある者は「より精選された、より高度な問題演習こそが自分の力を高めてくれる」と勘違いしてしまうし、ある者は「中学の入門レベルからもう一度やり直そう」という敬服する志を持ちながらも、「自分がかつて実際にやっており、結果うまくいかなかった同じ方法を繰り返し」てしまう。どちらも救われない。
魔法はない。秘策はない。必殺技はない。地道に、自分の得意技を作るだけだ。そうして身についたものだけが、自分にとっての「有効なストラテジー」として使いこなせるのだろう。ストラテジーというものも、よくて、「カンダタに垂らされた蜘蛛の糸」あるいは、せいぜい「コロンブスが先か、卵が先か」のパラドクス。勉強法や発想法の本だけをいくら読んでも、自分で勉強したり、自分でアイデアを練る「実作」のない限りは、血にも、肉にもならない。まして知にはほど遠いことだろう。
というような放言で放電して、さあ、自分の「実作」に、戻りましょう。
放課後は卒業判定会議。その後学年会議。明日は朝から進学クラスの運営に関わる会議。こう会議会議の連続では、「異議」や「懐疑」が残っても、「意義」や「生き甲斐」は産まれにくい。
朝方送付した原稿に関わるメールを二三やりとりして今日の一日が終わる。「今日の生き恥」をかいたと言ってもよい。
本日のBGM:Shame - 君を汚したのは誰 (佐野元春)