「ドレスの裾をからげなさい」

ベネッセのサイトで、吉田研作氏のインタビューを読む。(http://benesse.jp/berd/berd2010/feature/feature02/yoshida_01.html
正論すぎるかも知れないが、誠実なコメント・論評だと思う。次期指導要領はとりわけ、高校の英語教員の力量を問うものになる。
なにせ「コミュニケーション英語」である。
センター試験のリスニングテストが難化するとか、英文が読まれる回数がTOEFL/TOEICのように一回になる、とか、そういう次元の変化ではない。
最近の「内田樹の研究室」で「変化」や「改革」を例にとって内田節が炸裂していたが、その言を借りれば、次期指導要領は「根底的な改革」に属するだろう。ただ、方向性は示されたが、現在明らかになっている情報では、到達度目標になるような、明確な英語力が何も示されていない。たとえば、

  • 1分間に130語で話される英語が聞き取れる

と言ったところで、高校入試レベル (= 中学既習事項) の言語材料・トピック・論旨での英文なのか、それとも、 センター試験の図表読解問題レベルの言語材料がその速度で読まれるのか、によって能力の差は大きいはずである。ましてや、BBCやCNNなどのpodcastingでニュースを聞くとなれば、速度の問題だけではなくなるだろう。

  • ハイブリッド
  • インテグレーション

など、キーワードが賑やかになって、新しさを醸し出すのはいい。でも、

  • ちゃんと聞けるためには、こういう語彙・コロケーション・構文が知識として定着することが大切です。

ということを、どう日々の指導に落とし込んでいくのか。ただ、多読して、音読して、シャドウイングしていれば解決するわけではあるまい。

推薦入試の選考が終わったからというわけでもないのだろうが、英語科の教員で、新年度の教材で激論。
「英文解釈」の教材を使って読解の基礎力も文法も語彙も全てカバーしようというのが今の学校の状況に合わないのは確か。だからといって、全ての教員が自主教材で賄えるほどの層の厚さでもないので、何らかの副教材は必要となることも確か。とにかく、『チャート式』のような教材を持たせるだけ持たせておいて、授業の方は、準拠教材で進めることだけは阻止しないと。「『フォレスト』系の(和訳も解説も図解も載っている)テキストそのものを授業で使う方が余程マシ」という持論を強調しておいた。ただ、『フォレスト』は肝心のメイン教材に例文の音声CDがついていないのが難点。別売で例文集とCDのセットが出ているが、こういう周辺教材を、次々に出して売らんかな、という姿勢はあまり好きではない。
教材の話のついでに、私の忌み嫌う、「教材何周」という表現に関して苦言を。
こういう表現をしている学習者や教員は、学習というものが、トラックを走る陸上競技のようなものだと考えているのだろうか?今回の英語科の話でも、文法を身につけるのに「問題演習の数、量をこなす」という発想が根強かった。だったら、誰かが精選してくれた教材ではなく、どんどん違う素材に取り組んで、うまく適用できる・できないという直接体験を繰り返して、上手くいかないところはまた、基幹教材に戻っていけばいいと思うのだが、「演習」では、難易度を上げるにせよ、結局は精選された同一の教材での問題演習を何回も繰り返すのである。当然、同一教材で繰り返せば、どこに何が書いてあったかを覚えてしまうので、飽和状態とも言える状況が生まれる。たとえば桐原の『…ファイナル』などは、その飽和状態後の演習用にわざわざ配列をシャッフルして作られたものである。では、それを繰り返した後は?
こういうアプローチと比べると、現在の高校生には無理と思われている『英文法解説』を生徒に持たせながらも、高1から、普段の英語の授業で取り扱う言語材料に関連した例文を繰り返し繰り返し同書から拾い上げて、授業の中で英語を活用することで、結局は、そのレベルをクリアーしてしまう久保野実践の方が、よほど人間らしいと思うのだが…。
もう一つの違和感が、教材を「潰す」という言い方。
不敬な喩えで申し訳ないが、たとえばクリスチャンが聖書に親しみ、諳んじて言えるようになったとして「潰す」というだろうか?
今や教材は所詮、消費財なのだろう。潰した教材にもう用はないのである。紙と活字の辞書が長年の使用でボロボロになる、というのは分かる。でも、愛着は残るものだろう。潰すのは、自分の「不安」「弱点」「過信」「慢心」だけにしてもらいたいものだ。
教師も「潰され」ませんように…。
寝る前に『英語教育の中の英語学』(安井稔)を再読。

  • 水泳のコーチは、世界記録の保持者でなければならないことはない。が、みずからは「かなづち」である水泳のコーチなどは無意味である。というより、学習者の方で、コーチされることを辞退するであろう。/われわれの場合、つまり台所や町かどなどではなく、教室で、英語を教える人の場合、しゃべれる能力は、いわゆる英作文の能力を前提とする。英語を教える人は、中学・高校・大学を問わず、すべて英作文が、ひそかにちょっぴり得意になれる程度には、できるべきである。いばる必要はない。それが大前提なのだ。作文の授業を辞退したがる先生の数が減らないかぎり、英語教育の前途は暗い。(「英作文のすすめ」)

本日のBGM: The Heart of the Matter (Kate Jacobs)