ヨミヨムヨメヨメバヨマヌ…

初めてTOEICを受けたのは三年ほど前になるだろうか(もっともその一回きりしか受けていないのだが)。試験に関する情報もいろいろ集めてみたのだが、役に立ったと思える情報はほとんどない。その中で、最も苛ついたというか、まどろっこしくてしょうがなかったのが「聴き取りのストラテジー」とか「選択肢の先読みではXXに注意せよ」、「○○という語を含んでいる選択肢は偽」、「ひっかけの選択肢の特徴はこれだ」などというアドバイス。
そんなことに一々気をとられていたら全部聞き取れないじゃない。一つの問題文を読み終えたら、何のポーズも無しにすぐ次の問題が読まれるというなら、そういうギミックに頼らざるを得ないが、対話であれ、モノローグであれ、最初から最後までちゃんと聞いていれば設問の答えは一つしかないのだから。「いい加減な聞き方しかできなかったけど、正解に辿り着きたい」っていうのは何か違うでしょ?どこかでピーッとノイズが入るわけでもないし。聞き終わった時点で正しい理解ができるような力をつけることがまっとうな聴き取りの指導ではないのか?
邪推になるが、このような「聴き取りのストラテジー」って本来は、「選択的リスニング(selective listening)」という概念を聴き取りを教材化する段階で適用することで出て来たものなのではないか。

  • 全部が聞き取れなくてもいいので、ここだけに集中して聴いてご覧なさい。

という一見親切な手法である。
幼児が遊ぶ大振りなピースでのジグソーパズルをイメージして欲しい。「あぁ、これはキリンさんだな。」「これは、ゾウさんだ。」などと、全てのピースをはめ込まなくても、部分から全体を推測することで解答のプロセスを端折るのである。「アタックチャ〜ンス!」の「パネルクイズ」の最後の問題で部分的に見える映像を元に解答するのも同じようなイメージだろう。桶狭間、時鳥、鉄砲、日本地図、本能寺と映像を見て、「織田信長」と答える、というアレである。
これらがうまくいくのは、「もの」や「ひと」、「固有名詞」、せいぜい「事件」を当てればいいから。これが「ことがら」だったらどうだろうか?文脈を孕んだ名詞句であったらどうなるだろうか?

  • キリンさんが、冷蔵庫の中のゾウさんに早く出て、といっているところ。
  • 泣かぬので信長に殺されてしまった時鳥を、後でそっと埋葬する秀吉。

というような内容は、やはりほとんどの部分を読まないと解答できないだろう。結局のところ、どこが聞き取れれば、その正解にたどり着けるのか?を先取りするだけではなく、スクリプトの隅から隅まで、つまり全体を把握することが必要になってくる。
語句なら語句、一文なら一文、段落なら段落、文章なら文章で、スピーチやライティングなど、最終的には全体を自分で作らなければ成り立たないような言語活動(用語は言語運用でもなんでもいいです)を課すことによってしか選択的理解の能力は向上しないのではないか?

  • 日常の言語使用の場面では、全てを聞き取ることは行われていない。
  • 聴き取り能力の高いものほど、全てを聴きとろうとはしていない。

などと、ストラテジー推進派は言ってくれるのだが、「そのストラテジーを使用しているから、より聴きとれるようになったのか、それとも、より聴きとれるようになったから、そのストラテジーを使用できるようになったのか」という部分はあまり詳しく話してくれないのだ。「同じストラテジーを用いているのに、能力に差がある聴き手」の研究成果や「同じ能力なのに異なるストラテジーを用いている聴き手」の研究成果を併せて示してくれないと、平日の昼間にアルタに集う人たちのように、「そうですね!」と明るく頷くことはできそうにない。

  • 分からない部分は、聞き返せばいい。

というのがセンターであれ、TOEFLであれ、ほとんどのリスニングテストで使えないことは自明であろう。
英語教育の世界でも選択的リスニングの力が大切だ、という人は多い。その人は、おそらく、リスニングの能力に長けていて、さらには、選択的リスニングのタスクを作ることにも長けているのだろう。では、たとえば、詩の朗読会で初めて聞く詩の聴き取りはどうだろうか?手元にハンドアウトがなければ結構苦労するだろう。別な外国語、不慣れな外国語の聴き取りではどうなのだろうか?アジアやアフリカの言語で考えてみるとよいのではないか。一定のリズムパターン、ストレスパターンに乗って、音の連続の中から、固まりを取り出す力をつけるのにどの程度の時間、訓練が必要か?まずは語彙、決まり文句を押さえよう、というのが人情であろう。私は英語でならある程度の選択的聴き取りはできる。が、中国語では特定の話題でしか類推は利かないし、モンゴル語は全くダメである。
ボトムが覚束ない者は、ボトムの処理で引きずられるのである。いくら上から糸を垂らして引き上げようとしてくれたところで、カンダタと同じ不安がつきまとう。
新指導要領で高校は四技能統合が否応なしに求められることになるだろう。統合するのはいいだろう。では、何と何をどのように統合するのか、今現在の英語教育で、個々の技能に関して明らかになっていることを世に知らしめる責任が文科省にはあるだろう。
今日から、練習再開。五日空いたので、2Xでドリルから。技練だけをいくらやっても上手くはならない。ただ、間違ったやり方で続けても上手くいかない。全体と部分とを行ったり来たり。選手に求められるのは、その練習の先に何があるのかを信じること。言葉を換えれば、その指導者についていく自分の選択、自分の可能性を信じることである。
昨日今日と、妻の友人が正月休みを利用して訪ねてくる。友人もまたその人の鏡である。
夕食後、新春ブログ巡り。
茂木健一郎氏のクオリア・ジャーナル(http://qualiajournal.blogspot.com/2008/01/conversation-with-kanzaburo.html)で、歌舞伎役者、十八代目中村勘三郎の話を読む。
「内田樹の研究室」はKYの話。氏の引用する鈴木晶氏のように「空気を読む」「空気を読め」という心得ではなく、否定の分脈で語られることへの異議を唱える知識人がもっと増えて欲しいものだ。
TMが「てんでまとまりがない」の略だったら、初見・初聞の人は理解できないだろう。
センターのリスニングテストが「排除の論理」で機能しないことを祈る。糸を垂らすなら、重さに堪えうる糸を選ぶのが上にいる人間の責任である。

本日のBGM: ノスタルジア(原田知世)