「…こんな味だったっけな?」

3連休も本業三昧。
金曜日は勤労感謝の日。労働の労というよりは疲労の労。生徒にしてみればRowingのrow。
期待している選手が、学校での必修の資格試験の関係で合宿に参加できず。練習ができていないので、心配。いきおいエースとエースキラーのみのトレーニング。エースは、後半いい感じで艇速を出せていた。1/3でのぶら下がり加速ドリルがこの選手には有効。同じドリルを大学生の女子4X+でもやってみたが、整調はかなりよくなった。クルーとしてはまだ「?」。背中がしなやかに使えることが大切。昔よくG大でB選手に「アフリカ大陸のケープタウンが赤道と平行に動いていくイメージ」などとわけのわからない喩えで、肩胛骨の動きをリードしていたのを思い出した。
M氏のブログで坂出にフィンランドチームが来ているという情報を知ったので、見に行きたかったのだが、自分のところをまずは何とかせねば。そうそう宇和島には大分から合宿に来ているそうな。
本業の世界では、「世界のトップ選手の試合だけでなく、普段のトレーニングを見る」ことに意味を見出すのである。日本でも、男子のT選手やU選手は世界のトップレベルに極めて近いところにいるし、女子でもK選手は世界水準である。G大でも実際に、05年の長良川での世界選手権を見に行った当時の選手たちは多くの「気づき」を得て帰ってきたし、06年の選手はU選手らN社の選手と4-のコンバインで練習をした「気づき」をインカレ前の東北合宿で自分のものにして、インカレでの準優勝に繋げてくれた。
では、この本業での「世界のトップから学べ」と英語教育の世界は同列に語れないのだろうか?語れないとすれば、どこにその主因があるのか?その彼我の差は構造的なものなのか?その構造は人為的なもの(後天的なもの)なのか、先天的なものなのか?
などということを考えながら、柳瀬先生のブログでの「田尻科研」草稿を読んだ。
明日は、広島大で「田尻科研」に関連したシンポジウム。
私はといえば、朝から県の強化合宿。6月のブログでも書いた、外部コーチを招聘しての県の事業である。
うちの選手は、中学時代までに他のスポーツで高い水準にいたわけでもなく、普段私の指導しか受けていないので、他のチームのコーチの指導の様子を見たり、声色を聞いただけでもかなり緊張するらしい。今回の合宿で、どこまで積極的に接点を線や面に変え、自分の中に取り込んだり、自分の容量を拡げたりできるか。
帰宅して、奥の和室に堆く積まれた段ボールを開けて、書棚に整理していく壮大なプロジェクトワークの、第1ラウンドに着手する試み。開けたのはいいが、なかなか空かない。
例によって、出てきた本を読んでしまうのだなぁ。指導技術系は書棚の奥に入れ、手前に辞書などレファレンス系などという構想は構想のまま。

  • 英語を学ぶということと、英語を使うということとは別のことだと思うのだけれども、世間ではそう考えていない。全然別ではないということはもちろん誰でも考えるけれども、自分を育てるために英語を習うのと、何か買物をするために英語を習うのとでは、別だという心持は誰にでもわかるであろう。

という一節で始まる、福原麟太郎「放送と英語教育」、『現代英語教育講座 11 視聴覚教室』(研究社、昭和41年)を読んでしまったので、プロジェクトは次週に持ち越し。

  • しかし、水のことをワラと言って習いはじめた英語とウォーターと正しく発音して習い始めた英語とでは、どこか違うところがある。ベガパンとI beg your pardon. との間には、素性の良悪といってよいものがある。私は素性の良い英語を取る。/しかしそんな区別がかっきりあるものではない。そして、また私の強調したいのは、その結果、ああらわが君、わらわが名は、というような滑稽に陥る終局論ではなくて、用に立つというだけの英語よりも用に立つ以上に、その人の人柄を築きあげる英語を習ってほしいということなのである。英語を習ってきて知っているということが、人格形成の役に立つという、その途上を重視したい。/それでも結局役に立たなければだめではないかと誰でもいう。私としては実は役に立たなくても良いのだが、多かれ少なかれ役には立つであろう。余り気にしていない。

という部分は高師でESSの顧問の依頼を断ったという福原麟太郎氏のイメージと重なって見える(過去ログ参照:http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20061119)。自分を信じ、生徒・学生を信じていることがわかる。
後半の「お母様学校」「ふうがわりに」「もっと生活的に」と題された節は興味深く読むことができた。ただ、温故知新などと、一知半解ではいけない。本当に昔の英語教育はこんな味だったのか?先達から引き継ぎ、英語教育を支える、英語教育がよって立つ基盤・土台を英語教師がしっかり語っていくことが肝要である。10年ほど前、外語大にNEWを作ったときに、Richardが強調したのは、

  • English Language Teachingではなく、「英語『教育』」にしないとダメですよ。まず、『教育』じゃないと。

ということだった。よって、 Nishigahara "Eigokyouiku" Workshop だったのである。その後、Richardも帰英し、外語大も西ヶ原から府中への移転に伴い、参加者も減り、実質FEWとなってしまったのだが…。

本日のBGM: ばらの花 (くるり)