「足を掬われる」それとも「足下を掬われる」?

英語教育関連のwebsiteやいわゆるブログも色々な方が書いていて、その中でこのブログや記事が紹介されたりもするのだが、基本的にこのブログは私の授業日誌をベースにして、『英語教育』(大修館書店)など巷の英語教育メディアでは取り上げられないような話題や問題に対して切り込んでいくというものであることをお断りしておきます。テーマやトピックのカテゴリーごとに各々の記事が分類整理されているわけではありませんので、中央の検索窓を活用して「和訳」とか「読み」とか「リーディング」などを含む記事を読んで下さい。
最近では、「和訳」に関連して私の記事(5月19日付けhttp://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060519 )が取り上げられることがありました。『英語青年』4月号の特集に端を発する議論をするにせよ、和訳の問題は読みの問題と深く関わっているので、少なくとも、

のような流れの中で私の言説をとらえて欲しいものです。
英語教育ブログなどでは、「地道にマジメに英語教育」の山岡大基先生が、ご自身の掲示板で非常に明晰な考察を述べていました。地に足がついている、いい考察だと思いました。

私はものすごく基本的な部分で懐疑的です。「英語漬け」とか、「英語脳」とか "thinking in English"などという考え方には全面的には賛成できません。例えば、「教師が英語のみで授業をする」ことを「all Englishの授業」ということが多いのですが、私は "all interaction between a teacher and students and among students is done in English"という程度のものとしか考えていません。授業中に発話が英語でなされたとしても、その学習者の思考や内省が英語で行われているという保証は100%ではないからです。"Well",とか"Let me see."などいくら英語のfillerを入れていても、頭の中では日本語を素早く援用して英語の発話を維持している学習者は多いはずです。(実証的な研究に裏付けられているものではなく、自分の学習者としての実感と生徒の活動を見てきての実感です)
問題は、「学習者がどのように英語を学び、英語を使い、英語を身につけ、英語力を伸ばしていけるか」ということでしょう。
『英語青年』の特集で話題になっている「和訳」ですが、TOEFLやTOEICのような資格試験で求められる英語力と、京大や阪大の入試問題が解ける英語力とが厳密にどのように異なるのか、ということを英米のテスティング理論を規準として分析することは難しいでしょう。一方は学校教育の成果としての英語力ではなく、英語母語話者の英語力を規準に外国語としての英語の運用力のみを考えたもので、もう一方は「学力試験」なのですから。「英語母語話者なら満点が取れるテスト」がすぐれた「大学入試英語問題」とは言えないと思います。「英語母語話者」の前に、その大学で欲しい「学力」の定義に準じた限定がつかなければ困るでしょう?私の恩師も生前、「受験生が英語が満点で差がつかなくて困るというなら、面接でも何でもやって差をつければいい」というようなことを言っていましたが、だったら、英語の「学力試験」として課す必要はないのです。
一方、「和訳」を英語教育の世界できちんと体系づけて研究することができるのは、本当は日本語を母語とする研究者のはずなのに、その部分を正面切って世界に出て行こうという人はほとんどいないわけです。私にとっては、このことの方が考えておくべき重要な問題に思えます。そこが解決されないと、「和文英訳」の問題も十分に成熟した議論とはなり得ないような気がしています。
最後に、「和訳」に関連した議論で、「和文英訳」「訳読」などを批判する側が持ち出す比喩的と思われる造語で、

  • 「訳毒」

というのは、言葉のセンスが無いことを露呈するのでやめた方が良いと思います。「読」は活動を表すもので、「毒」は物質や効能を表すものだから、(?)「毒を訳す」という活動は想起しにくいでしょう?せめて、

  • 「害読」「毒読」

とか

  • 「毒訳」

などの、「英語を読む」という活動にとって非効率的で本質とは無縁なだけでなく「有害」な活動なのですよ、ということを訴えることのできる造語を使って頂きたいものです。そうでなければ「訳読」擁護派、賛成派、積極的推進派などに、つけいる隙を与えることになりかねないから。