英語ができる日本人

戦略構想なるものが出されて物議を醸した。否応なしに英語教師の英語力はやり玉に挙げられる。
戦略、といった場合に、それはいったい何と戦うための戦略なのだろうか?英語ができると、その戦場にかり出されて不幸な末路をたどるのではないか?というような心配はあまりしていないようである。
個人的には、斎藤兆史氏のように「(生徒も教師も低い目標を掲げたまま)科学的な英語教授法を云々する前に、英語教師はもっと英語を勉強しろ」という(趣旨の)正論に応えたいと思う。
英語教師として20年目を迎える今年、このテーマを少し真剣に掘り下げるつもりである。「昔の英語教師の方が英語ができたか」「昔とはいつごろか」「できる、という場合その規準とは何か」「教育制度上の違いは考慮されているか」「学校種別や教師歴に応じた統計がなされているか」などなど、まともな議論をしようと思うと、押さえておかなければならないことが山ほどある。
かねてより、「日本の英語教育界では、公的な英語力の規準が示されていないことが、指導評価の混迷の元凶である」と指摘してきた。いわゆる英検で「高校卒業程度」とされているのが2級なのだが、実際には高校卒業時に英検2級に合格できる生徒はそれほど多くなく、英語の指導に力を入れて学校のアピールをしている多くの高校では「英検2級の合格率」をもって、指導の成果としていたりする。矛盾していないだろうか?指導要領では、高校卒業時にどのような英語力を達成していなければならないか、などとは記述されていない。「そりゃ、指導要領だから」という人がいるが、英国の悪評高いナショナル・カリキュラムでは、改訂を経た後も依然として「アテインメント・ターゲット」という到達目標の8段階(+1)がいわゆる4技能ごとに示されている。制度としての問題点は多いが、一応筋は通しているわけである。それに対して日本では、文科省は「英語力」そのものを規定していない。教育の成果を云々するのであれば、英検や、TOEIC, TOEFLなど外部のものに規準を求める前に、自前で示す必要があるだろう。
「英語ができる」とはどういうことか、また現実問題として「どのくらいできるのがふつうなのか」。理論研究に本腰をいれ、そのための実証的リサーチを積み上げていく、という当たり前のことが求められている。