You are what you speak.

「溶ける子音」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
現象として認識はしていたが、概念としてこのことを知ったのは鴻上尚史の『発声と身体のレッスン』(白水社)で読んでからだ。言葉に関する重要な指摘があり、多くの英語教師に読んでもらいたい本である。
「子音が溶けたまま、話す人が増えてきました。『なに言ってるんだよ』が、極端に言うと、『あに、いってうんあよ』となる現象です。ここまで極端な人は少ないですが、ある程度まで、子音が溶けている人がいます。深夜路上でウロウロするのが好きな若者(笑)などにこの特徴があります」、「ずっとリーダーの言うことを聞いているだけの人は、子音は溶けたままです。人に重要なことを伝える必要がないんですから、言葉をクリアに言う必要はないのです」,
「若い人で、親がなんでもやってくれて、本当に大切な言葉をしゃべったことがないという人はいます。そういう人の言葉は溶けています」
この鴻上の指摘は2002年なのだが、翌2003年に清水義範が書いた『行儀良くしろ。』(ちくま新書)にも、こんな一節が出てくる。
「私は近頃若い人の言葉がどんどん聞き取りにくくなっていると、憂いている。」
とあるCMでの子どものセリフ「おいーちゃれんきれよかったれ」が気になる清水はこう言う。
「2002年からの新指導要領では、国語でこれまでより、『話すこと、聞くこと』の指導に力を入れていこう、という改革が盛り込まれている。そこで先生方は、小中学生に、観察報告を入れたり、意見を発表させたり、ディベートをやらせたりすることに取り組んでいるらしい。だけど、それより先にやらなきゃいけないのは言葉を明瞭に発音させることだろう、と私は思う。思うけど、誰もそこには手をつけないらしいのだ。それどころかあんなCMが喜ばれている」
翻って英語教育。「オーラル」だ、「実践的コミュニケーション能力」だ、などと騒いでいるが、中学終了段階で全ての生徒に、明瞭な英語の「声」を与えられているだろうか?小学校でゲームや歌を通じて英語に慣れるのは結構だが、小学校段階で英語を扱うのであれば、英語の「声」そして、その声を作る「音」をどうするのかの見通しを示すべきだろう。そして、英語を扱う前に、自分の「声」を根底で支える、日本語の「発声」「発音」を根底から見直すべきではないのか?
問題の根っこは、英語教師も同じである。私の尊敬するK先生がよく指摘していることなのだが、「日本人生徒を相手に英語で授業を進めていて、どこかの段階で、日本語による説明や解説をせざるを得ないことがある。その時に、日本語にスイッチしたとたんに急にテンションが下がる、おどおどしたような口調になる、歯切れが悪い人が多い」、というのである。それまでの英語が流暢であればあるほど、日本語とのギャップが大きく感じられるのだろう。このようなケースでは、日本語使用に対しての罪悪感によって、自分の本当の声が蔑ろにされているのではないだろうか。
まずは、「ことばを大切にする教育」を英語教育の根っこに取り戻したい。どんなにfluentに生徒が喋っていようが、声の溶ける生徒を作り出す授業であってはならない。ここは譲れないところだ。